Buddhism: 2015年7月アーカイブ

八正道

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今日の経典勉強会は「八正道」。サンユッタ・ニカーヤ45.8に、八正道の説明があります(訳文は増谷文雄『阿含経典』に基づく)。

正見:四聖諦を知ること(そのうち道諦が八正道なので、循環論法?)
正思:出道と非暴力を心がけること
正語:嘘や悪い言葉を言わないこと
正業:不殺生、不偸盗、不邪淫
正命:法に従った生活
正精進:諸悪莫作、衆善奉行の努力
正念:心の働きを細かく観察すること
正定:四段階の悟りの境地

苦を滅し、悟りに近づく極めて実践的な教えであることが分かります。正語が悪いことを言わないこと、正業が悪いことをしないことというネガティブな意味であるところが興味深いです。

「私は、良医のように病をよく知って薬を処方したのである。薬を飲むか飲まないかは医者の責任ではない。あるいは、先導者のように、順路を示したのである。これを聞いて進まないのは、先導者の過失ではない。(仏遺教経)」

八正道 (南伝相応部経典45.8)
舎衛城での教示である。「比丘たちよ、私は聖なる八支の道を説き、分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。では、私は説こう」「大徳よ、かしこまりました」と、彼ら比丘たちは世尊に答えた。世尊は説いていった。
「比丘たちよ、どのようなものを聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見から正定までである。
比丘たちよ、どのようなものを正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること、粗悪な言葉を離れること、および汚い言葉を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えられざるものを盗ることを離れること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正業というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子があり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、これを名づけて正命というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、いまだ生じていない悪しきこと・善からぬことは行わないと志を起こして、ただひたすらに、つとめ励み、心を奮い起こして努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきこと・善からぬことを断とうとして志を起こす。あるいは、まだ生じていない善きことを起こそうと志を起こす。あるいはまた、すでに生じた善きことを継続し、忘れず、ますます修習して、完全にしたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を奮い起こして努力をする。比丘たちよ、これを名づけて正精進というのである。
比丘たちよ、どのようなものを正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、身体において身体というものを細かく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏し続ける。また、感覚において感覚というものを細かく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏し続ける。あるいは、心において心というものを細かく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏し続ける。あるいはまた、この存在において存在というものを細かく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏し続ける。比丘たちよ、これを名づけて正念というのである。
比丘たちよ、では、どのようなものを正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感じる境地に至る。これを初禅を具足しているという。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内清らかにして心は一途となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じる喜びお楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足しているという。さらに彼は、その喜びもまた離れるがゆえにいまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念あって、楽住するという。これを第三禅を具足しているというのである。さらにまた彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨のみあり、念あって、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足しているという。もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである。

 

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