Buddhism: 2016年6月アーカイブ

四八端厳微妙相

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「三十二相八十随好」は、お釈迦様の身体的な特徴としてパーリ経典から伝えられてきたもので、転輪聖王の特徴としても挙げられています。仏滅後、反偶像主義のために約500年間、仏像が作られなかったのですが、この特徴を元に仏像が作られるようになりました。

その特徴とは「直立で手が膝に届くほど長い」「体が金色に輝く」「眼は紺色」「歯が40本ある」「舌が広くて長い」「男根がモッコリしていない」など、偉大な人物の特徴(mahāpuruṣa-lakṣaṇa)というよりはオバケっぽいのですが、それ以上にこのようなものを重視してお釈迦様を崇拝することは「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない」(スッタニパータ)「種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ」(正法眼蔵)という教えに背くように思われますが、いかがでしょう?

「人は見た目が9割」じゃなくて、言動で判断してほしいと思います。

Wikipedia:Physical characteristics of the Buddha

八万四千の法門

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「八万四千の法門」という数は、須弥山の高さが84,000由旬というところから来ているという論文(1由旬は1.6kmなので、須弥山の高さは13万km!)。さらに84という数は、1週間7日×12ヶ月とか、7つの惑星×12星座というように、暦か天文学から来ているみたいです。要するに、お釈迦様の教えは世界を普く網羅しているということを表しています。

International Journal of Jaina Studies:WHAT CAN THE LIFESPANS OF ṚṢABHA, BHARATA, ŚREYĀṂSA, AND ARA TELL US ABOUT THE HISTORY OF THE CONCEPT OF MOUNT MERU?

梵網経

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『梵網経』の十波羅提木叉を読解。曹洞宗の葬儀で授けられる十重禁戒(殺さない、盗まない、性行為を行わない、嘘を付かない、酒を作らない、悪口を言わない、自慢しない、欲張らない、怒らない、仏教を疑わない)はここから来ています。
 性行為を行わない→夫婦ならOK
 嘘をつかない→方便ならOK
 酒を作らない→もらいものならOK
(あるいは飲み過ぎなければOK) 
と、日本では都合のいいように解釈されがちですが、『梵網経』では全面的に禁止されています。
また不説過戒は、自分のことを棚に上げて他人の批判をすることを戒めています。葬儀のとき、まず自分自身が守れているかを自問自答しながら授けたいと思いました。

梵網經 盧舍那佛説菩薩心地戒品巻下

 弟子たちよ、合掌し心して聴きなさい。私はこれから諸仏の大いなる戒めを説こうと思う。皆ここに集まって静かに聴きなさい。

自ら罪があると分かれば懺悔しなければならない。懺悔すれば安楽であり、懺悔しなければ罪深い。罪なき者は黙然としていれば、心が清らかであると分かるだろう。

修行者も在家信者もよく聴きなさい。お釈迦様が亡くなり、悟りなき時代を迎えた今、具足戒(prAtimokSa)を尊重しなければならない。具足戒とは以下に説く戒めである。この戒めがあれば、暗闇の中で明かりを見出し、貧しい者が宝を得、病人が薬を飲み、囚人が牢獄から出、家族が旅から帰ってくるようなものである。だからこれは皆の師匠であると知るべきである。お釈迦様が在世のときと変わりはない。

罪を恐れる心も善を行う心も起こすのは難しい。だからお経には、「どんな小さな罪でも軽んじてはいけない。水滴が石に穴を開けるように、ほんの少しの罪でも無限地獄につながる」とある。一度人間でなくなれば何万劫も戻れない。若さは駿馬のように留まらず、命の無常なることは山の水よりはかない。今日生きているといっても明日も生きているとは限らない。皆それぞれ一生懸命努力し、怠惰と惰眠を貪ってはならない。夜は一心に三宝を念じ、空しく過ごしていたずらに疲労し、後に後悔しないように。皆それぞれ一心にこの戒めを守り、教えに従って修行し学ばなければならない。

仏様は弟子たちにおっしゃった。「十の具足戒がある。菩薩戒を受けてもこの戒めを読まなければ、菩薩でも仏弟子でもない。私も読もう。全ての菩薩が過去・未来・現在において学ぶべきものである。」

私は今、盧舍那仏となって蓮華の座に坐っている。周囲には千の花が咲き、その上に千のお釈迦様が坐っている。一つ一つの花は百億の国であり、一つ一つの国にはそれぞれお釈迦様がおり、菩提樹の下に坐って、同時に悟りを開く。この千百億のお釈迦様は、盧舍那仏を本体とする。千百億のお釈迦様は、それぞれ無数の衆生を伴い、私のところに一緒に来て、私が仏戒を読むのを聴く。そのとき不死の門が開き、千百億のお釈迦様はそれぞれの道場に戻り、菩提樹の下に坐って、本師である私の戒めを読む。十の重い戒めと四十八の軽い戒めは、明るい太陽と月のように、また瓔珞の珠のようであり、無数の菩薩たちは、これによって正しい悟りを得る。これは盧遮那仏が読んだものである。私もまた同じように読もう。お前たち、新たに学び始めた菩薩たちよ、この戒めを頂戴し保持しなさい。この戒めを保持したならば、諸々の衆生に授けなさい。よく聴きなさい。私は今こそ仏法の中の戒蔵である具足戒を読もう。大衆は心してよく信じる。お前たちは必ず仏になり、私はすでに仏になっている。常にこのように信じよ。戒めについてはすでに備わった。全ての心ある者は皆、必ず仏の戒めを受けなければならない。衆生が仏の戒めを受ければ、すぐに諸仏の位に入る。その位は大いなる悟りと同じである。これこそ真の仏弟子である。大衆よ皆恭敬し、心して私が読むのを聴きなさい。

(一)お釈迦様はおっしゃった。自ら殺したり、人に命じたりそそのかして殺させたり、誰かが殺されるのを喜んで見ていたり、呪い殺したりするならば、そこには殺生の原因があり、殺生の条件があり、殺生の事実があり、殺生の業がある。全ての命あるものを故意に殺してはならない。菩薩とはいつも慈悲と孝順の心を起こし、全ての衆生を救うものである。それなのに仏弟子が心のままに、あるいは楽しんで衆生を殺すならば、地獄に堕ちる罪である。

(二)仏弟子が自ら盗んだり、人に命じそそのかして盗ませたりすれば、そこには窃盗の原因があり、窃盗の条件があり、窃盗の事実があり、窃盗の業がある。呪い盗んでも、供物でも盗品でも、ひと針ひと草でも、故意に盗んではならない。菩薩とは仏性と慈悲と孝順の心を起こし、いつも全ての衆生の幸福を助けるものである。それなのにその逆に、他人の財物を盗むならば、地獄に堕ちる罪である。

(三)仏弟子はどんな女性とでも性行為を行ったり、人をそそのかして性行為をさせたりしてはならない。そこには性行為の原因があり、性行為の条件があり、性行為の事実があり、性行為の業がある。動物であろうと、天女であろうと鬼女であろうと、あるいは性器以外であろうと、性行為をしてはならない。菩薩とは孝順の心を起こし、教えと人を清らかにするものである。それなのにその逆に、淫欲の心を起こして動物であろうと、近親者であろうとかまわず性行為を行うのは慈悲のない者であり、地獄に堕ちる罪である。

(四)仏弟子が自ら嘘をついたり、人をそそのかして嘘をつかせたり、方便だといって嘘をついたりするならば、そこには嘘の原因があり、嘘の条件があり、嘘の事実があり、嘘の業がある。見ていないものを見たと言ったり、見たものを見ていないと言ったり、体や心で嘘をついたりしてはならない。菩薩とはいつも正しく見、正しく語り、全ての衆生にも正しく見、正しく語らせるものである。それなのにその逆に、全ての衆生に邪に見、邪に語り、邪に行うならば、地獄に堕ちる罪である。

(五)仏弟子が自ら酒を作ったり、人に酒を作らせたりすれば、酒造の原因があり、酒造の条件があり、酒造の事実があり、酒造の業がある。全ての酒を作ってはならない。酒は罪の原因や条件となるものである。菩薩とは全ての衆生に明るい智慧を起こさせるものである。それなのにその逆に、全ての衆生に倒錯の心を起こさせるならば、地獄に堕ちる罪である。

(六)仏弟子が自ら出家・在家・菩薩・比丘・比丘尼の悪口を言いふらしたり、人に言いふらさせたりすれば、悪口の原因があり、悪口の条件があり、悪口の事実があり、悪口の業がある。菩薩とは、非仏教や大乗小乗の悪人が仏教の中で不法・不埒なことを説くのを聞いて、いつも慈悲の心を起こしその悪人たちを教化し、大乗のよき信仰をもたせるものである。それなのに自ら仏法の悪口を説くならば、地獄に堕ちる罪である。

(七)仏弟子が自らの徳を讃えて他人をけなしたり、人に自らの徳を讃えさせたりするならば、批判の原因があり、批判の条件があり、批判の事実があり、批判の業がある。菩薩とは全ての衆生に代わって批判や辱めを受け、悪事は自分でかぶり、よいことは他人がしたことにするものである。もし自らの徳を持ち上げ、他人の善行を隠し、批判させるならば、地獄に堕ちる罪である。

(八)仏弟子が自ら惜しみ、人に惜しませれば、物惜しみの原因があり、物惜しみの条件があり、物惜しみの事実があり、物惜しみの業がある。菩薩とは、困窮した人がやってくれば誰でも、必要な物を何でも与えるものである。それなのに菩薩が悪い心や怒りの心を起こして、一銭も一針も一草も施さず、教えを求めるものに一句も一偈も微塵も教えを説かず、それどころか罵り辱めるならば、地獄に堕ちる罪である。

(九)仏弟子が自ら怒り、人を怒らせるならば、怒りの原因があり、怒りの条件があり、怒りの事実があり、怒りの業がある。菩薩とは全ての衆生に善根を生じさせ、争いごとをなくし、いつも慈悲の心を起こさせるものである。それなのに衆生であろうと幻であろうと、悪口で罵り辱め、手で殴り、棒で叩いても気が済まず、前の人が謝ってもまだ怒りを解かないならば、地獄に堕ちる罪である。

(十)仏弟子が自ら三つの宝を謗ったり人に謗らせたりするならば、誹謗の原因があり、誹謗の条件があり、誹謗の事実があり、誹謗の業がある。菩薩とは非仏教徒や悪人が一言でもお釈迦様を批判するのを見れば、三百の鉾が心に刺さったかのように苦しむものである。それなのに自らの口で批判し、信仰心や孝順心を起こさせないどころか、悪人の間違った見方を助長し人に誹謗させるならば、地獄に堕ちる罪である。

良き学びをしている者たちよ。これが菩薩として守るべき十の具足戒である。よく学ばなければならない。この中の一つ一つを、少しでも犯してはならない。ましては十の全てを犯すことなどありえない。犯す者があれば現世で菩提心を起こすことができず、国王・転輪聖王の位を失い、比丘・比丘尼の位を失い、十発趣心(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若・願心・護心・喜心・頂心)、十長養心(慈心・悲心・喜心・捨心・施心・好語心・益心・同心・定心・慧心)、十金剛心(信心・念心・迴向心・達心・直心・不退心・大乗心・無相心・慧心・不壊心)、十地(法雲地・善想地・不動地・遠行地・現前地・難勝地・焔光地・発光地・離垢地・歓喜地)、仏性、永遠の悟りを失い、一切を失って地獄・餓鬼・畜生道に堕ち、二、三劫の間、父母も三つの宝の名前も聞こえることがないだろう。だから一つ一つを犯してはならない。以上はお前たち全ての菩薩が現在・未来・過去に学んだものである。このような十戒を学び、心に留めなければならない。

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