Diary: 1999年12月アーカイブ

今、寺にはどういうあり方が求められているのでしょうか。

「坊主(蔑称)」は金にがめつい

菊の花 大学には仏教を研究しながら「坊主は金をがめるから嫌い」という先生もいらっしゃいます。事実、「坊主」は仏教を商品にして生活していると思われても仕方のない事例が増えていると聞きます。もちろん、僧侶というものは布施によって生活をしている存在ではあります。しかしながら、明治期以来の妻帯によって家族を養う必要が生まれ、僧侶が一般市民として社会に組みこまれて普通の家庭と特に変わることのない生活をするようになった今日では、仏教よりもお金の話が先に立ってしまい、人をがっかりさせることもままあります。

檀信徒が救われていない

 その一方で、家社会が次第に拡散し、宗教は家単位から個人単位へと移行しつつあります。寺は「檀家」という言葉からも分かるとおり、家を相手にその機能を果たしてきましたが、個人単位としてはまだまだ対応しきれていません。もっとも価値が多様化している現代では、一僧侶が全ての檀信徒の悩みをきき、取り除けるわけはありませんが、その努力さえもせず、放置された信徒が新興宗教を選択することもできず、信仰を失いながら救われていないという事態が広がりつつあります。

日本仏教の一大傾向

 宗教者から宗教屋に成り下がった僧侶が葬式法事で金を稼ぎ、檀信徒は救われない。そしてその傾向は僧侶の世襲制によっていちだんと強化される。もちろん全てが全てこうではありません。妻帯してもむしろ家庭の鑑として範を示しながら立派に当為を語り信徒の精神的支柱になっている僧侶もたくさんいます。清貧を守り隠遁者としての人生を全うする僧侶もいます。しかし、こういった問題は今の日本仏教界においては等閑視できない一大傾向なのです。

仏教からの逸脱

 お釈迦さまが教えを垂れた紀元前のインドにおいて、バラモン僧侶がまさにこのような状態だったといわれます。形式主義、祭祀万能主義、現世利益の強調など、今や日本の仏教はお釈迦さまの教えと真っ向から対立し始めているのでしょうか。

解決は出来るのか?

 正直に言うと、私の、ものごころつく前から寺院に育ったという立場では、この問題は根治できないように思われます。宗教者としての自覚というものは僧侶の世襲によってしばしば妨げられるものです。  この絶望的な状態からどうやって脱出できるでしょうか。このページでは虚偽を排しながらその手がかりをゆっくりと探していきたいと思います。

コラム−自画像−

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無欲ということはどういうことであろうか?無欲でありかつ精進することの難しさを今,思い知っている.
ひたすら義務をこなすだけで,世間体なんかが気にかかって,自分がどんどん空洞化していく.そんな自分がものすごく恐い.近いうち死ぬか廃人になってしまうようで.
生命力の炎が小さいのである.きっと,病気になったら真っ先に御陀仏だ.
死にたくはない,ような気がする.でも生きる理由がほしい.
残念ながら宗教は何も答えてくれない.宗教には道心という強靭な精神が要求されるのだ.
私は平坦な日常生活に耐えることができない.頭のスイッチを切って日常に埋没できる強靭な精神の持ち主人こそ,私は尊敬する.
それは結婚をして子供をもうけて,善良な市民として生活するということは幸せだと思うしそうしたい.でも,それだけでは足りない.何が足りないのだろう?
だからこそ哲学が必要なのだ.つまり新しい価値を探したいのだ.スポーツをしたり,映画を見たりするのとあまり変わりないのかもしれない.結局は趣味であり,気晴らしであり,誰のためにやっているのでもない.
私の目が全知者の目であったら,私の心が全知者の心であったら,私の体が全知者の体であったら・・そんな無謀な試みを無謀と知りながら続けているのである.古の賢者たちが記した本を手がかりにして.
いっそ,今すぐ地球が終わってもかまわない.「終わりなんだな」と思うだけだ.地球が終わっても,決して消えることのない価値を私は求めている.あるがままにあるだけのもの.

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