Diary: 2001年1月アーカイブ

お布施の金額提示

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<はじめに> 以下に述べることは,近年檀家に対して葬儀のお布施の金額提示をすることにした私が,自分のしていることに対する疑問を整理し,何を自戒するべきか明らかにする道筋を記したものです.客観的な言葉で書いていますが,出てくる意見はほとんど自省から得られたものです.それをあえて公表するのは,現代仏教の存続に関わる一問題として,仏教に関心のある方々に読んでいただきたいと思ったからです.ご意見ご感想をお待ちしております.

<布施の金額設定> 近年,お葬式や法事で,施主が僧侶に「お布施はおいくらくらいがよろしいでしょうか?」と聞く場合が多くなっています.その質問を見越して僧侶の方から先に「○○円くらいでいかがでしょう」と提示したり,さらには「枕経○○円,通夜○○円,葬儀○○円・・・」というように明細書を発行したりすることもあるようです.この間を葬儀屋さんが仲介する場合もあります.こういった風潮をどう見るべきでしょうか? 

<経済性の優先> 僧侶に失礼にならない限りできるだけ安くという経済性がこういった金額設定の背景にあると考えられます.おそらく一番多いのはこのような考え方ではないでしょうか.
「日ごろ寺に対して何もしていないのに,こちらの気持ちを示すにはお金しかない.その額が不十分ではお坊さんに失礼だ」
「葬儀ではお布施以外にもお金がかかるし,家計的にも苦しくなるのでお布施を出しすぎたくない.ほどよい金額が提示された方が安心できる」
僧侶の側が金額を提示するのも施主がこのように考えていることを見取ってのことであろうと思います. さらに僧侶の側には何も言わないとお布施が激安になってしまうかもしれないという懸念もありえます.法具や衣,寺の維持など何かとお金がかかるわけですが,ひとつひとつの葬式・法事では原価というものがほとんどありません.「坊主まるもうけ」と揶揄されるのはこの点にあります.だから葬式・法事で大したことをしていないと思われればお布施が下がってしまう心配もあるわけです.

<信仰が大切> 以上のような考え方に対して,僧侶ならずともこのような反対意見があるだろうと思います.
「信仰の問題であるから,何でもお金に換算してしまうのはよくない.僧侶はサービス業ではないから,代価という考え方は成り立たない」
僧侶の仕事に値段はつけられない.寺院は商店ではないので経済性や利潤を求めてはいけない.基本的にお布施は「(経済的にではなく気持ちとして)出すことができるだけ」ということでいくべきである.施主にもそのことをよく理解してもらった上でお布施を出してもらうようにしていくことが大切,という考え方です.これは,仏教におけるお布施本来の意味にもかなっています.

<お布施の意味> 「与えること,他に与えること,ほどこし,喜捨,恵むこと,金や品物を与えることばかりでなく,親切な行いも布施である.信者が僧に財物を施すことを財施,僧が信者のために法を説くことを法施という.通俗的には,いつくしみ.(仏教語大辞典)」
さらに,お布施に関して次のような教えがあります.

<三輪清浄(さんりんしょうじょう)> 「原語トリ・マンダラ・パリシュッディ(tri-man.d.ara-paris'uddhi).他人に対する奉仕の心がまえ.物を与え,奉仕する主体(能施)と,奉仕を受ける客体(所施)と,奉仕の手段となる物(施物)と,この三者は空で清らかであらねばならない,滞りがあってはならない.もしも「おれがあの人にこのことをしてやったのだ」という思いがあるならば,それは清らかな慈悲心からでたものではないという.(同)」
現代人の心に深く染み付いている経済性という観念を捨てて,僧侶は無償でお経を読み,施主は無償で金品を喜捨する.お経を読んでお布施を請求したり,お布施をして立派な葬式を頼んだりしてはいけないということです.この考え方は仏教が成立し存続する上でとても大切なものなので,仏教の基本として広く知っておいて頂きたいと思います.

<お布施をする動機> それでは見返りを求めてはいけないとするとお布施をする動機は何かということになります.常識がある人ならば,無意味なものにお金を使って破産することはないでしょう.社会生活を営んでいくためには何にお金や労力を使い,何に使わないかを判断していかなければならないのです.
これについて仏教では,2つの答えが用意されています.ひとつは慈悲心,すなわち困っている人への同情と親切です.悲しみにくれる遺族の心がお経によって少しでも癒されるならば進んでお経を読み,貧しい(今はあまりそうでない場合も)僧侶の生活がかわいそうだと思えばお米なりお金なりを分けてあげるということです.もうひとつはいわゆる功徳というものです.「情けは人のためならず」というように,よい行いをすれば最終的に自分自身が救われる(めぐりめぐって自分が得をする,または宗教的には涅槃の境地に近づく・極楽浄土に行けるなど)ということです. (この功徳を求めるということが見返りを求めることになる可能性がありますが,ここでは立ち入りません.)

<現実の問題> このような仏教の合理的でありがたい教えを理想として,実践し広く伝えていくことが僧侶の役目になりますし,おそらく僧侶という僧侶はすべてこのことを理解しているはずです.それではなぜ,先に見たようなお布施の金額設定の問題が出てくるのでしょうか.そこには以下のような理由があるようです.

「檀信徒の余計な不安をとりのぞく」 現実的な問題はお布施をするかしないかということではなく,お布施をいくらにしたらよいかというところにあり,この問題は檀信徒の頭を悩ませるものです.特に葬儀などでは遺族は近親者の逝去による混乱があり,この問題を考える余裕すらない場合がほとんどです.そこでその問題から解放するという親切心から金額提示がなされることがあります.実際,額に関係なく「言ってもらった方がありがたい」という意見もあります. 確かにこのような考え方自体はお布施の意味から外れていませんが,そのような契約的な取り決めが続いていけば,以下に述べるような寺院の事情とあいまって,檀信徒と寺院の関係を信頼がなくお金だけのドライな関係にしてしまう恐れがあることは否めません.

「寺の維持と僧の生存のためにはある程度のお布施が必要」
寺院という大きな建物は年毎に老朽化し,雨漏りしたり戸のたてつけが悪くなったりしていきます.また僧侶もかすみを食べて生きているわけではありません.さらに明治時代以降に僧侶の妻帯が認められ世襲が進むと,後継者育成の養育費などの負担も生じてきました.そこで,僧侶を含めて寺院が成立するために必要な額を檀信徒で分担することになります.年間通じて必要な額が,お布施の総額を上回って赤字にならないようにお布施は設定されています. 明細書が発行されるのはこうやって設定された額を皆が納得できるかたちで提示するという意図があると考えられますが,それ以外の意味はありえません. 清貧が望ましいとはいえ,あまりに貧しくては現代において僧侶になる人がいなくなってしまいます.(僧侶はお金持ちだと思う人がいるかもしれませんが,それはごく一部であり,多くは平均をかなり下回る収入でやりくりしている場合がほとんどです.その結果,田舎の小さい寺院では深刻な後継者不足が起こっています.)僧侶とは本来全てを捨てて出家し,その日その日を乞食(こつじき)で暮らし,悟りを求めて何物にもとらわれず雲のように水のようにさまよう存在であった訳ですが,寺院の住職となればそうはいきません.寺院という建物,檀信徒ひいては地域社会に対する義務や責任が生じてきます.一方檀信徒はみんなで力を合わせて寺院と住職を支えていくことになります.もちろんこの考え方は寺檀制度という仕組みと檀信徒の信仰なしには成り立ちませんが,少なくとも近現代の仏教の性格では必然的な結果であるといえます.

「お布施の額は信仰の深さを表す」
「お布施は高いほうがありがたみが増す」というのは言語道断な考え方だと思いますが,経済性にとらわれた人々にお金では得ることのできないありがたい仏教の教えを伝え,寺院に意識を向けさせる方便ということで正当化されることがあります.しかしこれは二重の過ちを犯しています.それは施主をお金で仏法が買えるという逆の考え方にしばりつけてしまうということと,僧侶自身が拝金主義を促進してしまうということです. 「お布施は安いほうがありがたい」「タダならもっとありがたい」というのは,お寺の敷居を低くし,より多くの人に仏教に親しんでもらおうという意図があると考えられますが,一歩間違えると上と同じ過ちを犯すことになります.金額の安さにこだわれば結局「これだけ安くしてやってるんだから,それ相応の恩は感じてもらいたい(いざというときはたくさんお布施を出してほしい)」という見返りを求める心が出てくるからです. 信仰の深さはお布施の金額とは本質的に無関係です.お布施をたくさん出しているからといって信仰が深いということにはなりませんし,出さないからといって信仰がないことにもなりません.そして僧侶の役割はお布施の金額を上げさせるよう努力することではなくて,信仰を深めるようにすることにあることを常に銘記しなければなりません.

最近日本の仏教界では「戒名料」が誤解を招く表現だとして使わない方向で進められています.戒名は釈尊の弟子になったことを示す名前であるから,その意思がある者には無条件に授与するべきだということになっています.つまり無料ということで,これに対してお布施を出すか出さないかはまったく自由です.それに限らず,すべての葬式・法事においてもお布施を出すか出さないかは全くの自由だと言えます.しかし僧侶は僧侶である以上,お経を読むのは義務です.これが施主と僧侶の基本的な関係なのではないでしょうか.

<金額提示の是非> 以上からお布施の金額提示について導かれる結論は,まずお布施の仏教における基本的な意味を十分にわかってもらった上でお布施を出すようにしてもらうということが肝心で,現実的な事情があるにしても金額の多少にこだわって基本を見失わないようにするということになるかと思います.
このことが効果的になっているある方の実例を紹介します.
「お布施はおいくらくらいがよろしいでしょうか?」と聞かれた場合,反対に「おいくらくらいをお考えですか?」と聞くそうです.するとたいていは「和尚様に聞いてから皆で相談しようと考えております」という返事.「私の意見はないですから,皆で相談してください」というと,親族でいろいろ相談して,「これくらいでいかがでしょうか」と提示してくるので,「それで結構です」と答えます.なぜ提示しないのか聞かれると,「こちらから提示すれば,きっとみなさんは『あの坊さんに○○円取られた』とお思いになるでしょう」というそうです.この場合,親族はいったん困るわけですが,相談の中で僧侶の心中についていろいろ考察し,お布施は出せばいいというものではないことを学ぶことになります.これだけのやり取りをするには相当な精神力と金額にこだわらないことが要求されますが,見本にしたいものです.

<今後の動向> 30年後くらいの近い将来,仏教が葬式行事に関与する必要がなくなってくると,信仰回復のための努力を行って生き残る寺院と,それができずに檀信徒を失って潰れる寺院の二極分化が始まると私は考えています.そのとき,お布施の金額提示は信仰回復を阻害することはあっても益することはないと思います.現実的な事情があるにせよ,お布施の金額提示はこれまで長年かかって培ってきた檀信徒の信仰の上でかろうじて成り立っています.信仰回復のための努力にはさまざまな形がありえると思いますが,お金に拘泥して信仰が消費されてしまわないよう注意しながら,現実の荒波の中でも仏教の原点を忘れないようにしていきたいものです.
より実際的には,金額を提示してもしなくても,葬式や法事を仏法発現の場として惰性でなく誠心誠意務めること,ひいてはできる限り自分の人生を一挙一動誠心誠意生きることが不可欠だと私は考えます.いくら立派なことを話しても,それを実践しなければ,誰もついてこないものです.

<最後に> お布施の問題に関して,ある老僧の印象深い言葉を紹介します.
「お布施というのは人からお金をとることにちがいない.みんな人からお金をとって生きている.これは悪業である.私は,そのみんなからお布施をとっている.それはみんなの悪業も引き受けているのだ.だから,当然私は地獄に落ちる.そういうものだ」

新カウンタで1年と10日、アクセスが10,000を突破した(旧カウンタは9,000台でリセットしたので、トータルでは20,000くらいか)。1日平均30弱である。内容の乏しさからすればそこそこある方ではないだろうか。リピーターの皆様には感謝申し上げます(特にtepcoとdtiとu-tokyo)。
アクセス統計を見ると、小林製薬がダントツ、次にオケOB会、ゲーム、セブン、トイレと続く。関心を持ちそうな母集団が大きいことと、類似したサイトの中でどれだけオリジナリティがあるか、そして更新頻度の多さが左右している。
掲示板もいろいろな方が書き込んでくれて楽しい。実際の生活での知り合いよりもネット上での知り合いが多いことは喜ぶべきことだろうか?
このページを通して自分の趣味が広がることがなによりの喜びである。もっとも、このページ自体が趣味になりかけているのだが。
今後ともよろしくお願いします。

大雪警報

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雪下ろしお正月から近年まれに見る大雪が降り、除雪作業の毎日が続いた。何でも夏にカメムシが大量発生すると大雪になるらしい。カマキリの卵が高いところに作られると大雪になるという話もある。今年のカマキリの卵の位置の高低は諸説あったが、確かにカメムシは大量発生してあの強烈なニオイに何度も悩まされたことを思い出す。
つばさは開業以来の終日さらに半日運休。奥羽山脈を越える米沢−福島間で雪の重みで倒木が相次いだらしい。その他県内でたくさんの列車が運休し、道路も通行止めが相次ぐ。かくも簡単に陸の孤島になるのであった。
1日の大半は除雪作業で過ぎて行く。朝起きると家の前は車が入ってこられないほどになっている。ロータリー式の除雪機に給油し、ロータリー部分に雪がつかないように潤滑油をさし、轟音を鳴らしながら小屋を出発する。山門から境内を一通り除雪すると約90分。ときどき雪がつまるので作業を中止して雪を取り除く。軒下などは山になっているが、そこは機械が入らないので人力(スコップ+スノーダンプ)で黙々とやる。
公道ではブルトーザー式の除雪車が除雪作業をしていて、せっかく除雪した参道入り口に雪の塊を置いて行くので、定期的にそこまで見に行って、山になっていればやはり人力で払わなければならない。
さらに天気がいい時には屋根に積もった雪を下ろす。屋根に雪が積もってくると家が歪んで戸が開きにくくなり、最悪の場合は家が潰れるのだ。屋根の上はもちろん人力。これだけの雪はどれくらいで片付けられるだろうかと考えていると気が遠くなるので何も考えず、疲れて動けなくなるまで続ける。動けなくなったら休む。休んだら再開。そして気がついたときには終わっているという寸法だ。
一面の白い世界で作業していると頭の中まで真っ白になり、体が自動操縦になっているかのようだ。口もぽかんと開いていたりする。
この地では何百年も昔から、こうして春になれば消える雪と格闘するとき、頭のスイッチを切ってきたのだろうか。すべてのルーティンはスキーマ(無意識でもできる行動の枠組)が形成されると楽しいとかつまらないという話ではなくなってくる。たまにはそういう世界に身を浸してみるのもいいが、全てがそうなってしまったら恐い。

お正月

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♪もぉーいーくつ寝ーるーとー」というほどお正月が待ち遠しいのはなぜかわからないほど、お正月は普通だった。
大晦日は小沢征爾のバッハで辛うじて救われたが、お正月からはただルーティンを消化するというだけで、頭は全くはたらいていなかった。そうなって来ると「あけましておめでとうございます」と言うのさえ白々しい。
こんなにネガティブなのは、ひとつには21世紀という言葉への無感動があるように思う。西暦でなければ何の特別なこともない。政変が起こって日本が全く別の国になると言うならともかく、20世紀と21世紀を別の時代であるかのように考えられるか甚だ疑問である。
それから年末年始の行事の多さにうんざりしていること、元旦から大雪で除雪作業に追われていることなどが追い撃ちをかけている。子どもの頃楽しみだったのはお年玉のおかげだろうか?
そんな訳で憂さ晴らしに元旦の夜に幼なじみと飲み会、2日の夜に高校の同級生・後輩とゲーム大会を行った。これはどちらともヒットで、笑ったり叫んだり楽しいひとときを過ごした。懐かしい顔ぶれと会うのは、自分の忘れていた部分を再発見することである。
これで「お正月らしくなった」と思ったとき、ふと「お正月は楽しくなければならない」という観念に追われていたことに気づいた。お正月は楽しいはずだが、実際は楽しくない。その期待と現実の溝が大きかっただけのことである。やはり普段から見ればお正月はそれなりに盛り上っているのかもしれなかった。

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