Diary: 2011年3月アーカイブ

読経ボランティア

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先週、檀家さんの火葬で斎場に行ったとき、懇意にしている係員の方から震災で亡くなった方の火葬を引き受けるという話を教えてもらった。宮城では斎場で受け入れきれないほどの方がお亡くなりになり、土葬を余儀なくされている。そこで遺族の希望があった場合は、隣県である山形県内の斎場で引き受けることになったのだという。

震災の被害者に何かできることはないかと思っていた矢先だったので、斎場に駆けつけて読経だけでもさせてもらいたいと思った。とはいえ、ガソリンがなくて車が動かなくなっていたため、その話を近くのお寺さんに伝えたところ、それなら市の仏教会で読経したらどうかと提案していただく。ちょうど会長さんも一緒だったので承認を受けて話を進めることになった。

市役所の市民課に電話してその旨を伝えると「たいへんありがたい」というご返事。遺族とは連絡が取れるので、読経させて頂けるかどうか承諾を取って下さるという。承諾があれば、時間を連絡してもらうよう段取りをし、誤解があるといけないので、お布施などの心遣いは一切辞退することも伝えるようお願いした。

それから1週間、昨日連絡が来て、たまたま時間が空いていたので私自身が行くことにした。幸いガソリンは昨日と一昨日で満タンにしてある。

すると近所の檀家さんから、お経を読んでくれないかという連絡が来た。亡くなった方の親戚が、私の住んでいる地区と姉妹地区になっていて、30年来の付き合いなのだという。また今朝は、別のお寺さんからも連絡。亡くなった方の家の菩提寺の住職が、御詠歌のつながりで読経をお願いされたのだという。何たる偶然。これも仏縁というべきだろうか。

火葬の30分前に斎場に着くと、棺がもう安置されており、遺族と、駆けつけた近所の檀家さんが取り囲んでいた。棺には番号がマジックで書いてあり、名前・年齢と「火葬するので動かさないでください」というメモが貼ってあって、身元確認をした形跡が分かる。戒名はまだ付けられておらず、遺影もなかった。

宗派問わずで引き受けたわけだが、菩提寺が同じ宗派で、住職が御詠歌の先生とあれば、遠慮せず自分のやり方で読経できる。棺前念誦で十仏名、舎利礼文と追弔御和讃で焼香、回向して印金で三通、炉前で聖号。葬儀の一部分を抜粋した法式である。すすり泣きが背後に響く。

火入れが終わって収骨までの間、しばらく遺族とお話をしてきた。そこで後日、菩提寺の住職から葬儀をしてもらえること、遺骨の安置場所は近くのお寺にあることが分かって安心。あとは生々しい津波の惨状が語られた。故人はベッドと壁の間にはさまったおかげで流されなくてよかったという話に返す言葉もない。お寺も、屋根だけ1km流されたり、住職が亡くなったりしているという。

そのまま収骨でもお経を読んで、お骨と遺族を見送って帰ってきた。私自身が逆に救われたような気持ちだった。

お寺では毎朝、お経を読んで万国殉難者諸精霊にも回向しているが、今日の読経の功徳が、老若男女数えきれない被災者の鎮魂につながることを祈る。明日も行く。

ガソリン狂騒曲

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ガソリンが尽きて、車に乗らなくなって1週間。通勤で使っているのではないので、近所へは徒歩か自転車、遠方へは迎えに来てもらうかタクシーで何とか済ませている。

人と会うたび話題になるのはガソリンのことばかり。前の日の夜から並んで何番目だったとか、新潟につめに行ってきたとか。

ガソリンスタンドの前に行列ができるのは東日本全体で起こっているようだが、車を停めたまま帰って来なかったり、交差点まで並んでしまったりして、あちこちで警察が出動する騒ぎに。ガソリンスタンドにも指導が入り、メール会員にだけこっそり知らせて開店したり、ゲリラ的に開店したりするようになっている。

ガソリン待ちの行列でアイドリングしていたのではガス欠になってしまう。そこで湯たんぽや防寒具で防備するわけだが、車中でストーブを焚いて一酸化炭素中毒で運ばれるという事故も起きた。車だけ置いて一旦家に帰ってしまう人も少なくない。

「携行缶(けいこうかん)」という言葉をよく聞く。新潟までいけば、往復で相当のガソリンを消耗する。そこで携行缶を積みこんで、それにも入れてくるという。携行缶を扱っているホームセンターはどこも売り切れ。ふたから漏れたガソリンにタバコの火が引火するという事故も起きた。

家の小屋を探したら携行缶が2つ出てきた。ガソリンが入っている音がするが、もう10年以上も前のものなので使わないほうがよさそう。

今日、近所のガソリンスタンドまで散歩がてら様子を見に行ってきた。1週間前と変わらず品切れと書いてある。もともと今月いっぱいで閉店する予定だったので、早めに閉店したらしいという噂もあるが定かではない。ガソリンについては皆の関心が高い分、本当か嘘か分からない話が行き交っている。

土曜日は、レンタルDVDの期限のため買い物をかねてタクシーで市街地に行ってきた。往復5000円以上かかるが、風景を眺めながら車に乗るのは悪くない。子供たちも久々の遠出で大喜び。またDVDを借りてきたから、今度の土曜日までには車に乗れるようになるといいな。

お店にタクシーで来るような人は見かけずほとんどが自家用車。近所の人とも多く会った。よくみんなガソリンをやりくりしているものだと思う。

過剰反応

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原発事故で放射性物質が山形県内にも流入しているのではないかと心配する声をよく聞くが、情報源が曖昧なまま、過剰反応しているように思われる。

チェルノブイリ事故でのドイツの体験からとか、そんな過度の一般化で語られても意味がないどころか、パニックを引き起こす恐れを考えれば迷惑ですらある。次に出てくるのは「政府は真実を隠している」論。そんな真実がないことは調べれば分かるし、あったとしても隠す余裕なんてあるまい。

「佐渡に逃げよう」とかお茶飲み話で冗談を言っているくらいならまだいいが、昨日長男が園児バスから降りたときマスクをかけていたのには閉口した。「悪いものが口に入らないようにだって」と長男。保育園で心配してくれる気持ちは分かるが、こうやって根拠のないものに過剰反応するのは教育上よくないと思う。

こんなことも起きた。

日本経済新聞:山形県教委「被曝の可能性、すぐ下校を」 小中高に独断で通知

荻上チキ氏は、誰もが誤報の拡大に加担してしまう可能性があり、しかも流言を拡散する人は自分のことを「リテラシーがある」と思い込んでいたりすると指摘している(『ダメ情報の見分けかた』)。ガソリンなどの物資不足についても然り。混乱が全国に広がる中、情報源を確認して正確な情報の把握に努めたいものである。

山形県における放射線の状況

地震前のガンマ線量は0.025〜0.082マイクロシーベルト毎時で、地震発生後は0.114〜0.135マイクロシーベルト毎時。増えてはいるが、1年間にさらされてよい放射線の限度とされる数値(1,000μSv)の約1万分の1のレベルであり、人体への影響はない。

ガソリンがない

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山形は震度4で何も倒れたり落ちたりせず、水道もガスも使えて、27時間の停電だけで済んだが、週明けになってガソリンがない。

「スタンド前に車の列が続いている」「米沢まで行ったが10リットルしかつめられなかった」(ガソリンを「つめる」って方言?)などという話を耳にしていたので、ガソリンスタンドに勤める友人に真偽を尋ねたところ、県内はもうほとんどなくて、入荷も未定になっているという。

土日休んでいた近所のガソリンスタンドが、100台限定で10リットルずつ給油できるという情報を入手。そして40km離れた小国町に行けば満タンにできるとのこと。すでに給油ランプが点灯していたので、今朝は7時から近所のガソリンスタンドに行ってきた。

10台目くらいだったので、田舎だから少ないのかなと思っていると、店の前にいる人から今日は閉店だという話が聞こえてきた。確かに看板には手書きで臨時休業と書いてあるが、それは車を並ばせないようにするための方便だという人もいてはっきりしない。しばらく待っているうちに、今朝の会議で、緊急車両への旧油分を残すため、一般販売をやめたらしいことが分かってきた。

仕方なく諦めて帰る。エンジン音が妙に軽いところを見ると、ガス欠寸前なのだろう。車庫にしまっておいたが、次に車を出せるのはいつになることやら。車で保育園に送迎している次女はこれで自宅待機決定。保育園に連絡したら、灯油が少なくて保育園もお休みになるかもしれないという。

しばらく考えて思いついたのが自転車。これなら買い物にも行ける。しかし家の電動自転車はもう何年も乗っておらず、雪に埋もれた小屋の中から引きずりだしてこなければならなかった。タイヤに空気を詰めて、充電器を探し出して充電したところ、すいすい走るようになった。でも今度は雪。

少しずつ入ってきたようだが、ガソリン不足がこのまま続けば、あらゆるところに影響が出てくるだろう。長男の保育園バスは動いていたが、給油できなくなれば各自の送迎となる。うちは歩いてもいけないことはないが、先生方だって車通勤である。学校も同じ。歩いて登校しても、先生方が来られなければ授業ができない。祖母のデイサービスも、お店も会社もそうだ。

ガソリンがなくても自宅にいる分には支障はないので、太平洋側の東北各県と比べれば、不便さの度合いは比べるべくもない。ほとんど被災しなかったといっていい山形県でもこの有り様なのだから、震災のものすごさを改めて思い知らされる。

ここ数年、急速にホール葬が増えている。宗務所長の呼びかけに応じて「お葬式はできるだけお寺か自宅で」と頑張ってきたが、一住職の無力さを思い知らされる。

お寺か自宅を勧める理由は、信仰の面と寺院経営の面の両方がある。

お寺には、何百年もの間、何千人、何万人ものこの地域の先祖が掌を合わせてきた本尊があり、また位牌壇にはその先祖たちが眠っている。そこで亡くなった人を送るということは、かつてこの地で生きた先祖たちに見守られて、仏様に導かれていく確信がもてるだろう。ホール葬で送った人が、終わってから何か物足りなさを感じるとすれば、その安心感だと思う。

自宅でも先祖を祀る仏壇があれば同じ理屈だが、故人が住み慣れた場所で送ることで安心のもとになる。

また、寺院は大きい建物の維持に檀家さんの理解が不可欠であり、本堂をあまり使わないでいると修理のとき理解を得られないどころか、不要論が出てもおかしくない。そのため、檀家さんや近所の方に現在のお寺の建物に入り、内外を見て頂く機会は多いほうがよい。

このような理由から、枕経にはできるだけ早く駆けつけて、やむを得ない理由(雪で駐車場がない、参列者が非常に多い)がない限りお寺や自宅を勧めてきた。ときには一度ホールに決めたものを覆したり、喪主と口論になりそうになったこともある。

しかし昨年、お寺の葬式に呼ばれてひとつ気が付いた。隣組の負担が大きいのである。

うちの田舎では隣組や五人組と呼ばれる制度が続いていて、お葬式の時はご近所の方がわざわざ仕事を休んで駆けつけてくれる。農家が大半だった昔と違い、勤務を休んでくるのは大変なことである。それでいて、今や葬儀の準備の大部分は葬儀社が行っているため仕事は少ない。かつては飾り物の製作や料理もあったが、今では近所へのお知らせ、出棺のときの棺運び、葬儀の受付、念仏、あとは終わった後の飲食といったところだ。

ところが自宅でするとなると、和尚さんたちの接待や葬儀の司会などが加わり、お寺ではさらに花輪の運搬や駐車場係などの仕事が増える。

もちろん、隣組が嫌がることは少ない。そのつもりで集まっているわけだし、暇を持て余していたのでは仕事を休んできた甲斐がない。でもその前に、喪家がそのような仕事をさせることに気を遣って遠慮するのである。それだけ近所付き合いが昔と比べ疎遠になっているということか。

こうして葬儀社任せが加速し、隣組はいよいよ何をお手伝いしたらよいか分からなくなっていく。そんな風潮の中、お寺でお葬式をしたいといえる喪主はどれほどいるだろうか。「近所に迷惑をかけない」というのがホール葬を選ぶ第一の理由ではないかとさえ思える。

喪家だけが大変になるというのなら、一世の一大事と説得して我慢してもらうようお願いできる。しかし隣組を考慮に入れると強硬になれず、ホールでもいいでしょうと妥協してしまう。それが信仰を奪い、お寺の寿命を縮めることになるかもしれないと思っても。

今は大雪なので、駐車スペースがないことを「やむを得ない理由」としてホール葬を承服している。しかしもうすぐ雪が消えてから、喪家でどこまで頑張れるか、はなはだ心許ないところである。

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