Diary: 2019年4月アーカイブ

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞

東大の入学式で上野千鶴子氏が式辞。東京医大の不正入試問題から、東大の男女格差の話へ。ジェンダーギャップ指数の高等教育で日本は149カ国中103位(2018年)。今は女性の方が高学歴なのが国際的に普通という中で、日本では女性に学問は要らないという風潮がまだ根強いことを物語っている。「「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。」

「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」女性でない私も、涙が出そうになる言葉だ。

法華経観音普門品より。

「若有女人 設欲求男 礼拝供養 観世音菩薩 便生福徳智慧之男 設欲求女 便生端正 有相之女 宿植徳本 衆人愛敬(もし女性が男の赤ちゃんを望むならば、観音さまを礼拝し供養すると、すぐに福徳と智慧を備えた男の子を生むことができ、女の赤ちゃんを望むならば、(観音さまを礼拝し供養すると)すぐに端正で美しく、前世で徳を積んだおかげでみんなから愛される女の子が生まれるだろう。)」

男の子は才能なのに対し、女の子は容姿が(しかも前世の業で決まるようなものとして)重視されているのが、お経が作られた1800年前では仕方ないとしても、現代では人権的な問題をはらんでいると思う。どんなに才能があっても、容姿が悪い女性はいけないのだろうか? そもそも、容姿の良し悪しを他人が決めつけてよいのだろうか?

現代でも、女の子には「可愛い」、男には「頭いい」と褒めておけばいいと思っている人がいて辟易することがある。

蛇のたとえ

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先月の経典勉強会は中部22『蛇喩経』。お釈迦様の誕生日にちなんで。

「たとえば、蛇を追い求め、探し歩いている男が大きな蛇を見つけたとしよう。そしてとぐろやしっぽをつかむとしよう。蛇は暴れて、彼の手や腕などを噛み、彼はそれによって死ぬか、死ぬほどの苦しみに至るだろう。なぜなら、蛇を誤って掴んだからである。全く同じようにある愚者たちが教えを学んでも、その教えが長きにわたって彼らに不利益と苦しみをもたらすのは、教えを誤って理解したからである。」

お釈迦様の教えは劇薬のようなもので、身体から認識までの五蘊を誤って我であると思いこみ、それが死後も存続すると考えている場合は毒になるという。そういう考えを持っている人にとってお釈迦様は虚無論者に映るかもしれないけれども、「私は以前も今も、苦しみと苦しみの止滅だけを教えるのである」とおっしゃる。非我の知が、苦しみをなくす前提だというわけだ。

お経をひたすら読んでいると、ふと、自分自身が普段思っていたようなかたちとは別のかたちであるような気がして、心が軽くなることがある。知らず知らずのうちに抱え込んでいたものを手放す感覚。明日から1週間、本山で過ごしますが、そのような感覚になれることが楽しみで行くのかもしれないなと思う。

朝日新聞4月3日投書欄より。

お坊さんを呼ばない葬儀がまだ一般化していないからこそ、このような言葉も出てくるのだろう。一応でも何でも、葬儀に僧侶が必要だと思ってもらっているうちに、できることをしておかないと。

この投稿の、「お坊さんがいないと近親者たちの会話の場が広がって良いお葬式になった」というのがヒント。地域に普段から入って、檀家さんといっぱいお話して、僧侶が遠くに住んでいる家族よりも近親者だと思ってもらうぐらいになりたいと思っている。

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