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東京大学で行われたシンポジウム「インドの大地が育んだ世界認識の枠組み」を聴講。因果、普遍と実体、言葉と存在、神と世界という4つのトピックについて、まずインド哲学の研究者が発表し、それに西洋哲学の研究者がコメントして討論するという、興味深い内容だった。

写真は因果論について。インド哲学で言われる世界の創造や因果応報について、西洋哲学の先生から何%でそうなるのか、100%だというならばどうしてそうと言えるのかという疑問が提示されたところである。インド哲学でも可能性の概念はあるが、100%でなければ正しいとはいえない。最終的には聖典を根拠にするが、現代では説得力をもたないといわれても仕方あるまい。

インド哲学が根本聖典の墨守に腐心してきたのに対し、西洋哲学は批判を通してアップグレードしてきたので、分かりやすさが格段に違う。宗教的文脈の強いインド哲学を西洋哲学の概念で切り取ってしまわず、同時に「知的骨董」にしてしまわない努力をどのようにしてできるのか、なかなか難しい問題だと思う。

インド哲学シンポ

近所に「ペット美容室ぶるーむ&Nilgiri雑貨店」というのがあるのだが、その前を通るたびに禅宗でよく読まれる『大悲心陀羅尼』を連想する。なぜか。

「ニルギリ(Nilgiri/नीलगिरि/நீலகிரி)」というのはインド南部、タミルナードゥ州で取れる紅茶の銘柄だが、翻訳すれば「青い山」という意味。ヒンディー語で「ニール・ギリ」、サンスクリット語では「ニーラ・ギリ」と読む。

大悲心陀羅尼の原題は「ニーラカンタ・ダーラニー(नीलकण्ठधारणी)」で、意味は「青頸(観音)陀羅尼」である。ここでも「ニーラ(青)」が用いられている。ニルギリから大悲心陀羅尼を連想するのは、そのためである。

「ニーラカンタ」はもともとシヴァ神の異名。それが仏教において観音菩薩にあてがわれたのは興味深い。観音信仰は、普く光を降り注ぐ太陽神ヴィシュヌだけでなく、破壊と創造の神シヴァ神にも由来しているのだ。

乳海攪拌の折にマンダラ山を回す綱となった大蛇ヴァースキが、苦しむあまり猛毒(ハラーハラ)を吐き出して世界が滅びかかったため、シヴァ神が毒を飲み干し、その際に喉が青くなったため、ニーラカンタ(青い喉)(Nīlakaṇtha)とも呼ばれる。(Wikipedia)

「ニーラカンタ」という言葉は陀羅尼の中にも出てきて、漢訳では「那囉謹墀(のらきんじー)」となっている。この文句のところで鐘を鳴らすのも、重要な言葉だからだろう。

それにしても「ニル」と「ノラ」が同じ言葉とは、訛りすぎもいいところである。意味を知らずに陀羅尼を読むのは密教だから問題ない(知らない方がいい?)。しかし漢訳して音読したときに発音が全く変わってしまっているのは大丈夫なのだろうか。

観世音言う、もし善男子前女人、この神呪を誦持する者は、広大なる菩提心を発し、誓って一切衆生を度し、身に斎戒を持し、もろもろの衆生において、平等心を起こさん。(千手経)

以下に大悲心陀羅尼の原文を掲載する。現在禅宗で読まれているものと比較しながら読むとその違いっぷりがすごい。意味も、「ライオン顔」「虎皮の服」など観音様のイメージとかけ離れた内容で、神呪のまま訳さなかった理由が分かるような気がする。

修士以来の指導教官が、日本学術振興会の科学研究費助成事業を取得して、「インド哲学諸派における<存在>をめぐる議論」プロジェクトを立ち上げた。その研究会で、長野県松本の信州大学へ。

松本に行くのは初めてで、路線検索の通りに羽前成田―赤湯―大宮―長野―松本というルートで行くことにした。直線で行くことはできず、N字型のルートで6〜7時間。さらに松本駅からバスで15分。意外に時間がかかる。新宿周りのほうが乗り換えがよかったかもしれないが、篠ノ井線の姨捨駅から見た盆地の眺めが最高だったのでよしとする。

道中は本を読んだり、ボードゲームの翻訳をしたり、寝たり。長野駅で1時間ほど待ち合わせの間に、ネットカフェに行ったら信州大学シミュレーションゲーム会の部室を教えてもらったので。大学に着いてすぐ訪問したが、夏休みのせいか誰もいなかった(カギは空いていたが)。

まずはひと通り自己紹介。インド哲学の若手研究者が約30名が勢ぞろいするのは見ものである。外国留学からわざわざ一時帰国して参加した人もいた。そして今回のプロジェクトの趣旨が説明された後、研究発表が始まった。私は発表がないので気楽なものである。

基調講演は桂紹隆・龍谷大教授で、アビダルマから二諦説・三性説に至る存在の分類と、ヴァイシェーシカ学派とサーンキヤ学派のカテゴリー分類を概観した。次に丸井浩・東大教授は、長尾雅人氏の空の存在論と、W.ハルプファス氏のインド古典存在論から、基本的な論点を抽出した。藤永伸・都城高専教授は、ジャイナ教の存在カテゴリー分類を年代順に整理してまとめ、加藤隆宏・ハレ大研究員はヴェーダーンタ学派のバースカラについて、シャンカラとの対比から宇宙原理と個我の異同を説明した。桂教授は、初期仏教を含めたインド哲学全体のコンセンサスを提案したが、学派による隔たりは非常に大きく、一口に「インド哲学では」というのは難しいことが浮き彫りになる。

和気あいあいとバスで宿に行って、温泉に入ってから夕食会と二次会。熱い哲学議論には加わらず、お寺や地震の話でのんびり。毎年4月に行われている新入生歓迎の研究室旅行のようで懐かしい。10年以上も前の話だが、あの頃私は何を考えて研究に没頭していたのだろう。40歳も近づいたせいか、どこか冷めている自分がいた。

翌日は広島大のイジェヒョン氏によるバルトリハリの「二次的存在性」について。奇しくも4年前にお亡くなりになった谷澤淳三・信州大教授の最初の論文テーマだったという。過去と未来の言語表現を可能にするため、文法学派ののバルトリハリは仮の存在性を想定した。そこには時間の実在も背景にあって面白い。次にウィーン大学に留学中の江崎公児氏は、ウダヤナの刹那滅論批判にみられる滅や無の実在性についてである。「無は存在する」という後期ヴァイシェーシカ学派の枠組みは、インド哲学の特異点と言えるだろう。そして最後は鈴木孝典・愛知文教大講師によるヴァイシェーシカ学派の目的論。ヴァイシェーシカ学派は自然科学といわれることが多いが、解脱論を説いている箇所もあり、その目指すところは簡単に判別できない。そこがはっきりしていなくて中立的であるがゆえに、ほかの学派が利用しやすかったのではないかと思われた。

全体討論では、存在論は言語哲学と切り離せないという提起が多くなされていた。インド哲学では、主にヴェーダの解釈学から始まった経緯から、語句と語句の対象の関係が深く考察されている。言葉の対象の実在を認めるバラモン教系諸派と、全ては心の中での出来事に過ぎないという仏教唯識系諸派で大きな論争が繰り広げられた。また、神の存在論証や、解脱の方法論とも密接に関わっている。これをどこまで広げ、どこまでまとめられるかが今回のプロジェクトの勝負となりそうだ。

このプロジェクトは今年から4年にわたって行われ、最終的に専門外の研究者や一般読者にも分かりやすい書籍にまとめることをめざしている。私はどこまでコミットできるか分からないが、年に1回くらいの研究会に顔を出しながら、昔研究した「ものとものの共通性」の特質をまとめなおしてみようかと思っている。そのほかに、丸井先生から早く博士論文をまとめるよう(会うたび言われているが)言われたり、桂先生から議論に関する術語集をまとめるように提案されたりと、身に余る激励を受けた。昨年、学会発表するきっかけになった後輩の結婚式もそうだったが、年に1度くらいはこうした場に出て刺激を受けることが必要だと思う。

しかし帰り道もやはりボードゲームの翻訳。メールとチェックすると、新たな翻訳依頼が来ている。こうして秋は毎年、翻訳三昧になっているが、はたして勉強できるのか、乞うご期待。

9月10日から2日間にわたって、立正大学で行われた日本印度学仏教学会の学術大会に参加、研究発表してきた。発表するのも行くのも、7年ぶりである。

1日目は、感覚を取り戻すために何人かの発表を聴いておいた。朝一番の新幹線に乗り、真っ先に向かったのは7世紀の仏教論理学者ダルマキールティ(法称)の部会である。毎回人気を集める部会だが、今回も熱気に包まれ、発表が終わるたびに喧々諤々の議論が交わされていた。午後からはアビダルマ部会とインド文学部会をはしご。

心に残った発表は「プラジュニャーグプタの独自相理解」(東京学芸大学・小林久泰氏)。認識の根拠を未来の対象とするプラジュニャーグプタが、独自相を未来に位置づけている仕組みが面白い。それから「チャンドラキールティの論理学」(筑波大学・吉水千鶴子氏)。何も主張を立てず相手の批判だけを行う中観学派で、特に帰謬論証にこだわったはずのチャンドラキールティが、仏教論理学派の枠組みに沿って批判自体を主張と捉えていたという話である。午後からは「阿羅漢の智慧と仏陀の智慧」(東京大学・馬場紀寿氏)」。部派仏教で定まった教説の重点が、大乗仏教に引き継がれ声聞・縁覚像が作られたという。それから「記憶するしくみ―発智論・大毘婆沙論を中心として」(龍谷大学・那須良彦氏)では、刹那滅の中で、いかにして認識内容が受け継がれていくかという問題に3つの答えがあることを説いた。

写真撮影が終わったら総会・懇親会には出席せずに宿へ。キンコーズで原稿をコピーして、三鷹のテンデイズゲームズへ。ネットテレビに出演し、来月にエッセン国際ゲーム祭で発表される注目の新作を紹介してきた。

2日目は発表のあるインド哲学部会に張り付き。発表は15分間で、質疑応答が5分間というのはあっという間である。日本中からこの分野の研究者が勢ぞろいしているわけだが、不思議と緊張はしなかった。たとえ発表にケチを付けたとしても(付けられなかったが)、数少ない仲間である。そう思うと遠慮なくマニアックな話ができるのが楽しく、そしてわざわざここに来て聴いてもらえることがありがたかった。発表中に2回、ウケを取れたのが嬉しい。

午後からは仏教用語の現代語訳を考えるパネルディスカッション。コンピュータで参照できる辞書を作るプロジェクトが進行中で、その経過報告である。仏教用語は、苦・集・滅・道や貪・嗔・痴など、漢訳をそのまま使っていることが多く、それが現代において呪文のようになってしまい、教義について深く考えたり、知らない人に伝えたりする努力を妨げていないかという心配が背景にあるらしい。

予め「訳語は一例の提案」と言ってあったにもかかわらず、早速会場は「そんな訳語じゃダメだ」のオンパレード。原語のサンスクリット語やパーリ語にしても、訳語の現代日本語にしても、ニュアンスの捉え方は千差万別で、さらに長年研究してきたこだわりもあり、今後の難航が容易に想像された。

学会中には、同じ分野の研究者たちと親交を温めることができた。久しぶりに会う人と近況報告し合ったり、論文でしか見ていない人と初対面のご挨拶ができたり、この道に入ったばかりの若い後輩とお話したりと、懇親会に出なかったにもかかわらず、たくさんの人と話できて満足である。そして私も、住職や父親やボードゲームジャーナリストだけでなく、一介のインド哲学研究者だということを思い出すことができた。放ったままの博士論文に期待なさる方もおり、今回の発表を足がかりにできればと思っている。

帰りは秋葉原のR&Rステーションへ。店内で「小野先生ですか」とか声をかけられたのでビックリしたが(最初は昨日収録したネットテレビを見た人かと思った)、学会で私の発表を聴いた筑波大学の大学院生だという。聴けば私と非常に近い分野の研究をしている。学会では筑波大学の先生から今度遊びに来てよと声をかけて頂いた上に、ボードゲームを嗜む学生がいると知ってはぜひ行かねばなるまい。

「リーラー(遊戯)」というサンスクリット語がある。神様が世界を作った理由として挙げられる言葉だ。余裕をもって愉しみながら続けていくのであれば、研究もリーラーなのではないだろうか?

今日の勉強

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参考文献の書き方(出版社が先か、発表年が先かとか)を忘れて、他人の論文を見たりしていた。もうリハビリだこれは。

とはいえ、始めると段々勢いがついてくる。読解力は鈍っているのかもしれないが、サンスクリット語の文章もどうにかこうにか読める(論理学関係限定だが)。

六主張論議は、立論と反論のあとに、再反論を失敗することで始まる。再反論を失敗すると、過失が立論にも遡及する。このことから、立論はそれ自体ではまだ成立したとはいえず、正しい再反論を待たなければならない。これは、ニヤーヤ学派の反駁がない限り正しいという原則(anyathaakhyaati)に則っており、レトリックで言われる「主張は反論によって鍛えられる」にも通じる。本論からは外れるが、興味深い箇所だ。

ウダヤナという11世紀の哲学者がメインだが、その前にジャヤンタバッタという10世紀の哲学者の著書に興味深い著述を見つけた。それ以前の学者とウダヤナとの橋渡しになるような記述である。明日、これについてまとめて、いよいよウダヤナの部分に取り掛かる。

気がつくとパソコンのわきに本が10冊くらい積み重なっている。崩れる前に片付けよう。

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