India: 2004年11月アーカイブ

電話格闘記(5)

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これまでの経緯は電話その2その3その4参照。ところがまだ続きがあったのである。

電話線は確かにつながっていた。ダイヤルアップ接続でインターネットができるようになったことで目的の大半は達成されたといってもいい。しかし問題は電話機だった。

家に電話をかけてくるのはI氏かK氏か日本の実家ぐらいのもので、電話を設置してしばらくは気づかなかったが、日本から電話があったときに異変に気づいた。電話が鳴ったので受話器を取ったが何も聞こえない。「ハロー、ハロー?」無言電話か混線と思い切ったらすぐに携帯のに電話がかかってきた。どうやら私の声は聞こえるが、相手の声が聞こえないらしい。受話器がおかしいのか、電話機がおかしいのか分からない。

ひとまず不動産屋のプラモードに言ってみた。「わかった。電話屋を見つけたら行っておくから待っててくれ。」…いつものパターンの始まりである。今まで何回これを繰り返したことだろう。今度は自ら電話屋を見つけて頼んだが、「OK。明日行く」と行ったままずっと来ない。私も諦めがついていて、そのまま1ヶ月が過ぎた。

1ヵ月後思い出して、プラモードに言いに行くと驚いている。「言っておいたのになんて怠慢な奴なんだ。分かった。今度俺が連れてきてやる」…そして2週間。インターネットはよく使っているので電話代の請求書が届く。I氏が電話局に行って交換してもらったらどうかと提案するので、電話代を支払うついでに持っていくことにした。プラモードが「この電話はこっそり引いたものだから、電話局に行かないでくれ。俺が何とかするから」と言っていたがもう信用しない。電話屋のせいだということを差し引いても、この件で彼は株を落とした。

引っ越してから電話代を払うのは初めて。市内に10以上ある電話局のどこで支払ってもいいが、現金支払いを受け付けているのは私の知る限り3ヵ所しかない(後は小切手支払い)。行き慣れているナル・ストップの電話局までわざわざ行って支払った後、電話を修理できるか聞いたら、あなたの住んでいる地域ならガネーシュナガルの電話局に行けという。教えてもらってリキシャーで行ったが空港に近いかなり離れた電話局だった。

電話機を出して電話番号を告げる。係のおじさんは電話機をチェックしていたが、壊れているのを認めたらしくあっさり別の電話機に交換してくれた。プラモードが心配していたような心配はなかった。係のおじさんは電話機のメカニカルなことにしか関心がないようだった。呆気ない幕切れにほっとしたような肩透かしを食らったような気分。

約5ヶ月かかった。というわけで今、自宅にちゃんと機能する電話機がある。しかししょっちゅう断線してつながらないのと、つながったと思うと間違い電話が多くて困っている。電話をかけてきて聞きなれない声が聞こえると「誰?」と言ってガチャンと切る。何なんだろう。

夜行列車を予約したので翌日は1日観光となる。コルカタはムンバイ以上に建物や公園があるところだが、私は2つに絞ってみることにした。ひとつはカーリー寺院、もうひとつはインド博物館である。カーリー寺院の話はお食事中の方注意なので、行った順序と逆に書く。心臓の弱い方は、博物館の記述が終わったら読むのをやめてほしい。

インド博物館は、その名の通りインド最大の博物館。デリーの国立博物館、ムンバイのプリンス・オブ・ウェールズ博物館よりも見ごたえがある。とりわけ仏像の豊富さと美しさには、心奪われるばかりだった。









左上からガンダーラ仏(?)、マトゥラー仏(3c.)、サールナート仏(5c)
ビハール仏(10c.)、ジャワ仏(10〜12c.)、ビハール仏(10c.)
ガンダーラ仏マトゥラー仏サールナート仏
ビハール仏ジャワ仏ビハール仏


坐禅の像を見ながら、ふと我々の坐禅と左右反対であることに気がつく。曹洞宗の結跏趺坐は右足を先に組み、その上に左足を乗せる。法界定印の組み方も右手の上に左手を乗せて作る。ところがインドの仏像は、例外なく右手・右足が上。左手が不浄手であるという文化は日本にも伝わっているので、これが理由ではあるまい。どこで反対になってしまったのか、詳しい人にちょっと聞いてみよう。

仏像以外の展示物としては、ベンガルの近代画や、インド少数民族の生活紹介が印象に残った。インドのはるか東南、マラッカ海峡近くにあるインド領アンダマン・ニコバル諸島では下半身の前部にだけ蓑をつけたほぼ全裸の民族が生活している一方、インド東部アッサム地方の近くにはほとんど中国人のような身なりの民族がおり、西インドにはターバンを巻いた民族たちがいて……この国は広い。日本も南北に長いが、ここまで変化に富んではいないだろう。

あとは鉱石や化石、動植物の展示などひとつひとつ見ていくのは全く不可能なほどの展示がひしめいていた。博物館ショップでは石像のレプリカを売っていて、手ごろな価格で日本にもって帰ったら成田で捕まりそうなかなり大きいものまであった。

さてもうひとつ、カーリー寺院はこの間プネーに立ち寄ったゲーム仲間のV1さんから教えてもらったものだ。悪魔を滅ぼす女神カーリー(ドゥルガー)は残忍な性格で、ヒゲを生やした男たちの生首をネックレスにし、さらに何本かある手ですごく危なさそうな剣をかかげ、また別の生首の髪をもってぶら下げている。その上目もいっちゃっているし、舌も出ているので怖い。去年ビハールで買ってきた絵は、勉強部屋におけなくて台所に飾っているほどだ(その前に買うなという話も)。

カーリー信仰をしている人には、女神に人間の耳や鼻をささげようと、山地で盗賊を続けている者もいる。警察に銃殺されるのが先か、それとも神に誓った数(100とか)だけ耳や鼻を集めるのが先か。そこまで極端な信仰は稀だがこの女神は広く信仰を集めており、そのドゥルガー祭は全インドで大々的に行われている。

さてそのカーリー神が自殺して、ヴィシュヌがその身体を切り刻んだときに足の小指が落ちた場所(どうしてインド神話ってこう……)が、ここのカーリー寺院となった。ここでは朝から晩までひっきりなしにヤギの首を刎ね落としてカーリー神に捧げている。

寺院の境内には専用の処刑場があり、子ヤギから大人のヤギまで次々と連れられてくる。処刑場には2台の断頭台があって、屈強な男が羽交い絞めにして断頭台に首をセットする。もう1人のおっさんが金属の棒で首を固定したあと、カーリー神がもっているのと同じような刀でスッパリ。ヤギは私を睨みながら、そのまま白目をむいた。

身体はしばらくの間動き続けるので、首を切った後その辺で暴れさせておくのだが、自分の首を自分の足で蹴ったりすることがあり、V1さんが「シュールでした」という以上のものがある。ヤギを寄進した信者には、そのおっさんが生首からとった血を額にちょびちょびと付けていく。その間、切り口から出てきた赤い何かを犬がペロペロ。動きが止んだヤギは門の外で皮をはがれ、信者に振る舞われる。あらゆる意味で信じられない光景。V1さんは半日も眺めていたというが、フランス革命などを想像してしまった私には5,6匹ぐらいが限度だった。

こんなことを言うと信者の人に失礼だろうが、仏教の不殺生戒は家畜を犠牲にして行うバラモン教の祭式と対極にある(もちろんバラモン教でもバラモン殺しは重罪になるなど、全ての殺生が是認されていたわけではない)。こんな光景を目の当たりにしたらこの世をはかなんで出家したくなるようだ。

もっとも、日本もちょっと昔は生きているニワトリの首を刎ねる光景が普通にあったわけだし、現代においてもおよそ肉という肉は全て生き物を殺すことによって生じるわけだから、ここが特別というわけではない。彼らを残忍だと思うならば、わが身も残忍だと言わなければならぬ。他の命を奪わなければ生きていけないという生命の本質を隠して、人を殺してはいけないと教えても子どもたちは分からないのではなかろうか。ビーフを食べながら捕鯨反対をしている奴らは、そういうことをどう考えているのだろう。

……などとありきたりなことを考えつつ博物館に向かったが、お釈迦様の首だけの石像とヤギが重なって仕方なかった。








インド唯一の地下鉄。思いの外近代的だった
コルカタの地下鉄

逃げるようにしてヴァラナシを後にした私が向かったのは、インドで3番目に大きい都市コルカタ(カルカッタ)である。特急ラージダーニ号を使えばもっと早いのだが、夜中に着いては宿の手配が面倒だからと、夜行列車を使って朝到着する便を選んだ。

列車の同じコンパートメントでは2人に子どもを連れた夫婦と同席。プリンスという名前の赤ちゃんは1才ちょっとで人形のようだったが、オムツをしておらずあたりにしょっちゅうおもらしをしている。女優のカジョールをちょっと思わせるお姉ちゃんは退屈そうで、ちょっとふざけてはお母さんに引っぱたかれていた。

劣悪な環境のせいか赤ちゃんが泣いてなかなか眠れなかったのに、今回はLB―1段目の座席ベッドだったので朝6時に親父に起こされる。UB―3段目を借りてごろごろしているうちに、ハウラー駅に着いた。

コルカタにはコルカタ駅というものがない。ターミナルになっているのがハウラー駅と、シアルダー駅の2つだ。ハウラー駅で降りた場合、市内にはフグリー川を越えていかなければならない。船も出ているが、たいていはバスかタクシーに乗ってハウラー橋を渡る。駅前にはメーターのタクシーがずらりと並んでいる。

コルカタでの目的は写本調査。イギリス人ウィリアム・ジョーンズが1784年に創立したアジア協会は蔵書2万、写本8千点をもつインド最大級の図書館だ。今もなお高い水準の研究活動が行われており、世界の学者がここに来て調べものをしている。前もって1ヶ月も前に手紙を送っていたが、よく伝わっていなかったようで、手続きは全部最初から。

しかしここでプネー大学のジャー先生の名前が効いた。ジャー先生はご当地ベンガルの出身である上に、来月ここで集中講義を行うことになっている。ジャー先生の名前を出すと、手続きはどんどん進み、お目当ての写本を見てコピーを頼むところまで一気に進んだ。最初はパスポートを見せろとか行っていたのに大違いである。

それからアジア協会で最近出版された本を購入して、ひとまず宿を探すことにする。すぐ近くにやたら豪華なホテル「ザ・パーク」があったので値段を訊いたら1泊8000ルピー。本を買いすぎて荷物がすごいことになっていたのと、旅行の疲れも溜まってきていたので、インド居住登録証を見せて6000ルピーで泊まることにした。これは9月にT氏と泊まったムンバイのオベロイタワーズに次ぐ高級ホテルだ。

さすが高級ホテルだけあって、本の荷造りと発送、翌日の切符予約、近くの見どころやネットカフェの案内まで至れり尽くせり。テレビでトムとジェリーを見ながら、快適な一夜を過ごす。食事は外の安い店で食べたが、立ち食いのチキンカバブ・ロールや、レストランの魚料理が美味で、ヴァラナシで食べられなかった分を取り戻すことができた。

チョウカンバ出版に行った後、ネットカフェでメールを読み書きしていたらすっかり日が暮れてしまった。だがI氏との待ち合わせがあったのでガンジス河に向かう。「夜にガンジス河付近を歩くのはやめましょう。何ヶ月かに1回、外国人が行方不明になっています」とガイドブックに書いてあったのを思い出したのは、ガート(河辺の沐浴場)についてからだった。

ヴァラナシで最も大きく、また代表的なダシャシュワメード・ガートは、チョウクから大通りをまっすぐ行くと到着する。ちょうど何かのお祭が行われており、男たちが河辺に並んで鈴を鳴らしながら手旗信号のようなポーズをとっていた。すでにガートに着く前から次から次へと客引きが寄ってきていたが、ガートでは行く手を遮る客引きの多さ。立ち止まるとそれがさらに増え、囲まれてしまうので、ゆっくり踊りを見ている暇もない。まるでハエか蚊のようだ。

踊りを見るのもそこそこに、I氏との待ち合わせ場所を目指して河沿いに歩く。ダシャシュワメード・ガートは人だかりだったのに、それ以外は人がほとんどいない。ときどき犬がうろついているか、2人組の男とすれ違うくらいだ。電灯もほとんどない真っ暗闇。これぐらいなら、客引きに囲まれている方がましだなあ……と思い始めた頃、火を焚いているのが見えた。火葬場のあるマニカルニカ・ガートである。

「写真撮影は禁止だぞ」と注意されながら火葬場の中に入っていくと、日も暮れているのにあちこちで火が上がっており、さらに次々と担架に乗せられた死人がやってくる。火葬が終わって灰を片付けているところ、船から薪を運んで積み上げているところ、死体を乗せているところ、火をつけて煙が上がっているところ、炎が燃え盛っているところ……全行程が分かるほどたくさんの火葬が行われていた。

すぐさま1人の男が寄ってきて、火葬の様子を眺めている私に説明を始めた。「ガイドは要らない!」と言っても言っても、話をやめようとしない。死体の上にかけられた布の色で性別や年がわかること、身分によって焼き場が3つに分かれていること、すぐ裏にはマザーテレサが作ったホスピスがあって、回復する見込みのない病人が最期のときを待っていること、彼らのための薪代がなくて困っていること、だからあなたの寄付が必要なこと、私を信用できなければホスピスに直接行って寄付してもいいこと……予想されたことだが、結局お金の話だった。あっさり断ると、「私は説明する前に、後から議論しないと約束しました。つべこべ言わないで寄付してください。(英語)」私もこの言葉にカチンと来た。「ガイドは要らないって最初に言っただろう!(ヒンディー語)」

議論を始めた我々に遺族が面白い顔をするはずがない。「これ以上見るんなら、あっちの建物に行ってくれ」火葬場の隣にあるホスピスは、火葬を見学できるようにもなっているのだ。しかしホスピスに行けばあちらの思う壺。「帰る!」といって火葬場を後にした。ところがところが、ガイドは「帰るってさ!」といってもう1人呼ぶと、2人がかりで私に付いてきた。ガイドブックでは火葬場から待ち合わせ場のガンガーフジまですぐのようだったが、道が狭くて枝分かれしている上に、かなり遠い。ガイドたちと口論しながら、ときどき「ガンガーフジはどっちだ?」と言って案内させる私。ガイドたちはしまいに「警察を呼ぶぞ」などといって脅し始めたが、「それはこっちの台詞だ!」と突っ込みつつ、早足で逃げ切る。自称警察とか、ぐるになった警察がやってきたらひとたまりもない。

口論と早足と興奮で、心臓をどきどきさせながらたどり着いたガンガーフジ・レストラン。ヴァラナシで日本食が食べられる数少ないレストランだ。待ち合わせしていたI氏はわずか10分ほどの間に次々と麻薬の売人に声をかけられたという。最悪な街だなあここは、と思いながら入ったガンガーフジの中華丼も最悪だった。具がまずいのはまだ我慢できるとして、ご飯が土の味なのだ。私は味覚音痴で何でもうまいと思ってしまう性質だが、お腹ペコペコなのにまずくて食べられないという経験はいつ以来だろう。7時30分からの店内コンサートの準備も始まっていたが、早々に店を出た。ここに日本人女性の2人組が食べに来ていたが、何を食べたのだろう。

ガンジス河近くの道は狭い上に混んでいて、サイクルリキシャーの渋滞ができている。次々と日本語で話しかけてくるインド人を無視しつつ、そこでひたすら歩いて大通りまで戻り、リキシャーを探すが今度は暴利料金。駐車禁止のところで客引きをしていて、警官に棒で殴られたばかりのリキシャーに隙を突いて乗り込み、やっと通常料金で帰ることができた。ふう。

ラームナガル城塞翌日はI氏と4キロほど離れたラームナガル城塞へ。古代の王国カーシーのお城で、ガンジス河を対岸の高い位置から見ることができる数少ない場所だ。今もマハラジャが住んでおり、一部が博物館として開放されている。直線距離はないが大橋を渡っていくのでかなり遠回りな上に、道が悪いので時間がかかる(船で渡ってきた方が早そうなくらい)。中の展示物はどれも薄汚れていた上に、見張りのおじさんがガイド料やら写真撮影料やら要求してくるので感興がわかなかったが、ガンジス河を前景にしたヴァラナシの街の広がりは確かによい眺めだった。ここでも日本人カップルに遭遇。いろんなところにいるなあ。

戻ってきてから再びガートへ。サンダルを脱いで足だけガンジス河に入り、「贖罪完了」。昼間だとそれほど客引きもうるさくない。子どもが寄ってきて「ちんこ!カモン」とか言って売春の斡旋をしてきた。おそらく日本人がふざけて教えたのだろう。罪深いことである。ここにはこんがり日焼けした日本人のおじさんと目が合って、なぜかばつが悪そうな顔をしていた。

夕方にガンジス河近くでもう1件の日本食レストラン、モナリザを訪れる。ここも道が入り組んでいてヴァラナシ経験のあるI氏でも迷いそうになっていた。私は後を付いていっただけでどの方角に歩いたかさえも定かではない。ご飯恐怖症になっていた私はじゃがいもクッパ、I氏はバナナケーキを食べた。隣りでは日本人のお姉さんがインターネットをしている。どこに行っても日本人、こんな環境に好きで来ること、そして何気なく生きていることに驚く。日本人って、案外たくましいのかも。

この街で過ごした数日間で、日本語で話しかけてくるインド人に警戒心と嫌悪感を抱くようになってしまった。旅の情緒をぶち壊し、得意顔でお金をせしめようとする奴らは、とびきり貧しそうな子どもたちを狙い、大金を渡して写真を撮っている西洋人の次に嫌いである。

学会の次の目的は本探し。ヴァラナシはパンディット(バラモン教学の伝統教師)の故郷といってもいいほどパンディットがたくさんおり(シュクラ先生もヴァラナシ出身)、彼らが書いたサンスクリットの本が昔からたくさん出版されている。インド学の出版社を代表するモティラル、チョウカンバ出版を筆頭に、小さいところまで入れるときりがない。








チョウカンバ・サンスクリット・シリーズのオフィス。兵隊さん(絵)がやさしくお出迎え
チョウカンバ・サンスクリット・シリーズのオフィス

そのひとつ、チョウカンバ出版に足を運んだ。街の中心部、チョウクから歩いていけるところだが、リキシャーも通れないぐらいの細い道が迷路のように張り巡らされているので、絶えず人に聞きながら進む。やたら奥まったところに「チョウカンバ・スラマーラティー」の看板発見。入ってみるとそこはまるで江戸時代の問屋のようだった。

入口に土間があり、その奥に座敷がある。高さ50センチぐらいの台の上で番頭さんがソロバンを…ソロバンはないが、注文書を整理していた。本を担いだ人たちが行ったり来たりしている。座敷に通されてしばらく欲しい本を告げ、しばらく待っていると、「注文した本はここにないから、奥の店にいけ」という。店を出てさらに小路を進んでいくと、その行き止まりに今度は「チョウカンバ・サンスクリット・シリーズ」という看板を発見。チョウカンバがいくつもあるのは紛らわしい。

さて入口から2階に上がると、同じように座敷で番頭さんたちが仕事をしており、若い衆が本を運んでいったり来たりしていた。本の名前を3冊挙げ、30分も待っていると2冊揃った。1冊は店にあったが、もう1冊は向こうのチョウカンバ(さっき行ったところ)から買ってきたという。よくわからない。

座敷の壁には額に赤い線の入ったおばあさん2人とおじいさんの絵がかけられており、その下、座敷の一番奥には額に同じ模様の入ったおじさんが陣取っている。こんなに分かりやすいものはない。絵の人が先代社長で、おじさんが今の社長なのだ。

社長は仕事の手が空くと、絵について訊いた私に丁寧に教えてくれた。1892年、チョウカンバ出版はここで営業を始めた。初代社長の絵はないが、中央に飾られているおばあさんが初代の奥さんで、出版社を切り盛りしていた。初代社長には4人の息子がいたが、家を継いだ長男(絵の人)のほかに弟たちもそれぞれ独立。これがチョウカンバ支店の始まりである。今はその孫、つまり今の社長の世代がさらに枝分かれし、おまけに仲違いもあってたいへん複雑なことになっているという。「ほかでも元祖を名乗っているところがあるけど、ここが本当の元祖なんだ」と社長。額の赤い線はクリシュナ信仰のマークである。

社長によると3冊目の本はどこのチョウカンバに行ってもないだろうという。しかし大学で出展していたチョウカンバ・バヴァンの店員が「店に行けばある」と言っていた。行き先を聞く私に、社長は親切にも電話をしてくれた。まずサンスターンという出版局にはなかった。「バヴァンはそこから卸しているんだからないと思うぞ」と言いながら、電話だけかけてくれ、「お前が話せ」と受話器をよこす。それでバヴァンにも探している本はないことと、この社長はバヴァンとは仲が悪いんだということが分かった。112年も営業していれば人間関係も複雑になるのか。その点モティラルは今年で101年だが、ジャイナ教徒だからか分からないが統率が取れている。

「今度来たらまた寄ってくれよ。」社長の暖かい言葉にヴァラナシでは珍しく心が緩んだ。

ヴァラナシ(2)学会

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さてヴァラナシに来た一番の目的は、駅近くのサンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学で開かれた「全インド東洋学会」である。インド各地で2年に1回開かれ、今年42回を数える由緒ある学会で、参加者は3,000人にものぼる。そのほとんどがインド人で外国人は我々を含めて4、5人しかいなかったのではなかろうか。

ヴェーダ、哲学、詩学、写本学、宗教学、東南アジア、コンピュータなどいくつかの部会に分かれて1人5分ぐらいずつ、原稿を読む。ヒンディー語と英語が半々といったところ。質は玉石混交もいいところで、ほとんどは石の方だ。博士号をもっている人でも、中学生の感想文でもありえないような要約を語るだけだったり、ほとんどマッドと呼んでいいようなこじつけだったり。









正面の白いテーブルには年配のパンディットが座る。左から2番目の赤い布を肩にかけているのがシュクラ先生。結構重鎮らしい。
パンディット会議

しかしもともとそのような発表を期待してきたのではない。今習っているシュクラ先生が参加するパンディット会議が一番の楽しみだった。インドに散らばるパンディット(バラモン教学の伝統的な教師)たちが一同に集合し、サンスクリット語だけで議論をする。議題は予め配布されており、六派哲学と文法学それぞれについて3つぐらいずつ。

これがカルチャーショックともいえる刺激だった。まず伝統的な方法なのか地べたに円くなって座る。司会が名前を呼び上げて、1人ずつ5分間ぐらいの発表。原稿を見ている人はほとんどいない。「誰々の見解によれば、この定義は〜〜。しかし〜〜という別の定義もあって、この2つは相容れない。それをどのように解決するべきか、私は考えました。」まず恐ろしいまでの記憶力。一息では言い終わらないような長い定義を早口で、一気にすらすらーっと話す。実際定義を言い切らないうちに息が切れてしまう場面も多かった。そしてそのしゃべるスピードは、内容の難解さも手伝って常人にはとてもついていけない。

しかしさらに恐るべきことに発表が終わると、いや発表が終わらぬうちから、一斉に他の人たちが反論し始めるのである。話に付いていくだけでも骨が折れるのに、それに対して「いや、それは違う! なぜならこの定義は〜〜と解釈すれば問題はないからだ」「そうではない! 誰々の〜〜という解釈でそれはすでに解決されている」云々と理知的に反論していく。

その剣幕にはただ圧倒されるばかり。声の大きい方が勝ちなのだ。カミナリ親父がぶち切れたとしても、ここまで迫力は出ないだろう。マイクがなくても耳にびんびん響くため、中にはマイクを取り上げられている人もいた。理知的なだけではダメで、発言権を取るためには声の大きさもなければならない。授業では家の外まで声が響くシュクラ先生でも、反論を最後まで聞いてもらうのは難しいようだった。

これだけの声を張り上げたら私はとても正気ではいられない。シュクラ先生が休み時間に「これがインドの議論なんだよ」と笑いかけてきたのに頷きながら、理知的に考えながら怒号を発するというのはいったいどういう頭の中なんだろうかと訝しく思った。とにかく、かっこいい。

さて、インド全国から3,000人も集まってくるのだから開催地はたいへんである。サンプールナ・アーナンダ・サンスクリット大学ではグランドにじゅうたんを敷いて食事会場とし、特別に大きな鍋で料理を提供していた。宿泊施設としては眠っていた学生寮を修理して対応。そもそもホテルに泊められるような予算はない学会だから(参加費は5日間の食事・宿泊費・駅からの送迎・学会誌込みで1人2000円程度)、ほとんどの人が大学の中で生活していたわけだが、よく収容できたものである。









むき出しの電線(左上)、貸出のバケツと水桶(左下)、ずれているかんぬき(右下)に注目。おまけにドアのたてつけも悪くて、怒りのキックをお見舞いした跡がある
ナヴィーン・ホステル

その代わり、私がI氏と一緒に泊まった「ナヴィーン・ホステル(新寮)」は筆舌に尽くしがたいものだった。低予算旅行の経験が長いI氏も、「これまでで最低から2番目の宿」という。まず第一に、名前の割に全く新しくない。「それは相対的に新しいとか、単なる名前だけの話じゃないのか」と惨状を聞いたバフルカル先生は仰っていたが、「ナヴィーン」の響きは空しい。

次に、この学会に向けて修復をしてきたのだろうが、それがまだ終わっていないどころか、学会中ずっと工事の音が絶えなかった。しかも外壁のペンキ塗りとか、どうでもよいところは完了しているのに、トイレやシャワー室、電気の配線など肝心なところが未完了なのだ。我々が宿に着いて最初にしなければいけなかったことは、バケツと水桶の貸出の手続きを取ることだった。水道は中庭の中央と、シャワー室にあるだけ。もちろん、お湯はない。

部屋を案内されてI氏がリュックサックを下ろそうとしたそのとき、I氏の背中から火花が飛び散り、煙が上がった! 見るとそこにはむき出しの電線が。「そこは危ないから気をつけてね」と係。コンセントをつけないなら電気を流すな! 事故で感電死しても補償金は50万円というこの国で、電線の下で寝るのは寝返りを打つのも怖い。

棚は埃で真っ黒、窓の格子にはガラスがなくて吹き抜け、やけに狭いのに無理やり入れたベッドが2つ。もともとあったらしい机と椅子はドアの前に無造作に投げ出されている。眠るとき以外はいたくない部屋だった。早速蚊取り線香や飲み水を買いに出かけることになる。

ところがさらに難関が待ち受けていた。ドアに錠をくくりつけるかんぬきがずれて設置されているのだ。蹴りを入れて無理やり入れようとしたら、かんぬきはグニャリと曲がった。ようやく錠をかけることはできたが、防犯にまるで役に立たないことは目に見えていた。

こんなところに4泊も泊まることは無理。I氏とその結論に達するまで時間はいらなかった。その日はもう遅かったし、1泊なら話の種になるだろうということで泊まってみることにはしたのだが、そのためには外の闇酒屋でビールをたっぷり飲んで、部屋についたら即ダウンという状況を作らなければならなかった。

ガンジス河・ダシャシュワメードガートガンジス河沿いにあるヒンドゥ教の聖地ヴァラナシ。ヴァーラーナシー、ヴァーナーラシー、バナーラス、ベナレスなどと色々な呼び方があるが、ヴァルーナ川とアッシー川に挟まれた地域であることに由来するらしい(サンスクリット語的には並列複合語「ヴァルーナとアッシー」から派生した所有複合語「ヴァルーナとアッシーをもつ街」といったところか)。

ヒンドゥー教徒なら一生に一度はここに来てガンジス河で沐浴するのが夢。ガンジスの河につかるとこれまでの罪は全て清められ、天界行きが約束されるという。そのためインド全土から年間100万人を超える巡礼者が訪れるわけだが、なぜだか日本人も多い。ガンジス河の流れを眺めているとめまぐるしい日本の生活を忘れることができるのか、インドといえばヴァラナシだと思って何となく来てしまうのか、それとも取り締まりの緩いハッパ(マリファナ)が目当てなのかしらないが、街で見かけるアジア系のほとんどは日本人であるといってよい。他の都市に多い韓国人はあまり見かけないから、そのあたり国民性が出るのだろうか。ちなみに日本人といってもお金持ち風の人はおらず、カジュアルな身なりをした若者である(中には真っ黒に日焼けした、ほんとうにインドが好きそうなおじさんなどもいるが)。 

そのようなわけでリキシャーや物売りが日本人と見ると食いついてくる。タージマハルのあるアグラはインド人でもぼったくられる街で悪名高いところだが、こと客引きのしつこさに関してはここの足元にも及ばない。特に夜の駅はすごかった。プネー発の急行でヴァラナシの駅に着いたときのこと。列車を降りた直後から、もう客引きが寄ってくる。どこ行きたい? 宿はどこ? いいホテルがあるよ……英語、ヒンディー語、日本語が飛び交う。しかも一度に何人も寄ってたかってくるからたまらない。

幸いこの日はラタさん(「デオカール夫妻」参照)がサールナートの国立チベット研究所のゲストハウスを確保しておいて下さり、「バーラト・サルカル(インド政府)」と書かれた車の迎えまでついていた。しかしリキシャーのおじちゃんたちは客引きの手を一向に緩めない。ラタさんに付いていく我々に「付いていくな! こっちにこい」と怒鳴りつける。地面にびっしりと人がゴロ寝している駅前の広場を、「車はある」と応酬しながら通り抜けていく。これがヴァラナシなんだなあと、妙に感心した。


ヴァラナシ、ゴードリア交差点リキシャーの客引きは、目的地に着いたばかりの人やあまつさえまだ別のリキシャーに乗っている人にまで声をかける。何の考えもなく、動物的に客を探しているようだ。料金は交渉制なので、相場を知らないとまずぼったくられる。観光客だから現地に住む人の値段で乗ろうとすること自体間違っているのだが、かといってみすみす言い値で乗るわけにもいかない。

言い値を半分ぐらいにしてみて、イヤならいいよ、他のリキシャーを探すからという素振りを示す。相手が慌てて値段を下げてきたら勝算あり。乗る気がない素振りを絶えず示しながら、それをさらに下げていく。相手よりも精神的に優位にたつことが大事で、したがって夜遅くや急いでいるときなど、こちらが不利な状況ではきつい。そうなったら恫喝という奥の手を使うしかないが、口げんかはとても疲れるので避けたい。

こうしたやり取りも元気なうちはゲーム感覚で楽しいのだが、いつもいつもそうだと次第に疲れてくる。しかし新しい元気な客引きが次から次へと現れ、こちらに勝ち目はなさそうな気がしてくるのだった。

Ticket to Ride in India

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04年11月旅行地図 11月1日から2週間にわたって、学会と調査、そして仏蹟巡礼のため東北インドを旅行。鉄道で往復4000キロを87時間(結構早い?)、3000円(安っ)で移動した。


  1. 急行ギャーンガンガー(智恵のガンジス)号、プネーヴァラナシ行で29時間
  2. 学会を終えて急行ヴィブーティ(威力)号、ヴァラナシ発ハウラー(コルカタ)行で17時間
  3. 調査の後に急行ドゥーン(谷)号、ハウラー(コルカタ)発でガヤーまで8時間
  4. 仏蹟を巡礼してからハウラー=ムンバイ急行でガヤーからカリヤーン(ムンバイ近くの駅)まで29時間
  5. カリヤーンから各駅停車でカルジャット(デカン高原の登り口にある駅)まで1時間30分
  6. カルジャットから各駅停車でプネーまで2時間30分

左の図で黄色い先が往路、緑の線が帰路。帰りはプネー行きの直行便がなかったため、ムンバイ近くまで行ってから折り返さなければならなかった。
(C)白い地図工房

 長距離を走るインドの急行列車には多くの場合、2段ベッドの寝台車、3段ベッドの寝台車、冷房なしの一般寝台車、冷房なし椅子だけの二等車がある。冷房があると運賃が跳ね上がり、そのくせ寒すぎて体調を崩すので、夏でもない限り一般寝台車しか選択肢がない。

 
一般寝台車 一般寝台車は通路を挟んでそれぞれ二段、三段ベッドになっている。二段ベッドの方は長さが今ひとつ足りず、身長があると足を曲げて寝なければならない。一方、三段ベッドは日中、二段目を倒して背もたれにする。こうして一段目(Lower Bed)は座席、二段目(Middle Bed)は背もたれになるわけだが、三段目(Upper Bed)はそのまま。日中の座席はLBの人が窓側、UBの人が通路側、MBの人がその中間となる。

 LBの人は窓からの眺めと涼しい風を享受でき、UBの人は寝たいときに寝られる。どちらがいいかは人それぞれだろうが、長時間になればなるほど昼寝ができるUBに軍配があがりそうだ。座席はLB、UB、MBの順で予約されるため、MBになりたくなかったら切符を早めに買うことだ。

 車内は揺れて本を読めるような環境ではない。おしゃべりをするか、ものを食べるか、眠るか、ぼーっとするか。はじめの数時間はよいが、10時間、20時間と経つにつれてだんだん脳みそがとろけてくるようだ。ほどよい暖かさや単調な線路の音も手伝って、乗客はみんな目が虚ろ。

 しかし物売りは絶えずやってくる。チャイ(劇甘ミルクティー)、軽食、冷たい飲み物、果物、本、食事の注文。その中に混じってコブラの蛇使い、床掃除をしてお金を求める物乞い(雇われているのではなく、途中から乗り込んで自主的にやっている)、超下手な歌や楽器でお金をせびる物乞い、何もしないでお金をせびる子どもたちなど。

 とりわけ強烈なのが女装してお金をせびりにくる人たちだ。中には本物のヒジュラ(両性具有者)もいるらしいが、たいてい厚化粧をしてサリーやパンジャービードレスを着ているだけの野郎たちで、これが一番しつこい。女性(の姿をしている人)には無下に断れないのを承知で、あごをなでたり、頬をつねったりたたいたりしてくる。「ねえ、あんた〜、お金よこしなさいよ。ほら私たちこんなにきれいでしょ!」……目の前に立たれると直視できない。笑ったり侮辱したりすると猛烈に怒るそうなので目をつぶって首を振り、去るのをひたすら待つ。

 
途中停車 発着時刻は意外と正確だった。途中で1〜2時間遅れても停車時間を縮めたりしてできるだけダイヤ通りに戻そうとする。それでも途中の信号で管制官が居眠りをしているのか知らないが、30分も途中停車をすることがある。そういうとき乗客は列車から地面に降り、線路に座って休憩。日本だったら罰金どころかニュースになってしまうだろうが、なにしろ列車のドアは手動式だから止めようがない。汽笛が鳴ると乗客は腰を上げて乗り込み、列車は何事もなかったかのように出発する。

 車内生活の快適さについてだが、トイレはそのまま線路直行で垂れ流しのため、車内はあまり汚れない。洗面所もついており、顔を洗ったり歯を磨いたりすることはできる。しかし入浴はもちろんのこと、着替えもままならないので暑いとちょっときついかもしれない。今回はむしろ、夜の寒さが厳しかった。北インドは一足早い冬が来ているらしく、寒くて目が覚めるほど。一般寝台車には毛布も枕もないので、I氏のアドバイス通り靴下と肌がけが役に立った。

 手荷物の管理は大事。義理の兄がインドで鉄道旅行中、ちょっとウトウトしている間に荷物を盗まれたことがあったという。カバンには鍵をかけ、さらに座席の下にチェーンでくくりつける。三段目ならば、上に置いておくのも一手だ。今回は荷物を最小限にしておいたため、鞄を枕にして寝ることができた。これが一番安心。

 駅や列車の中で犯罪に対する注意を促す掲示をよく見かける。「見知らぬ人からもらった食べ物を口にしないで下さい。死に至るか、泥棒にあう可能性があります」というのはいわゆる睡眠薬強盗対策。その中に「物乞いには何も与えないで下さい」なんていうのもあった。インド国鉄もなかなかたいへんである。

 ゴミは全て窓からポイ捨て。バナナの皮や、素焼きの茶碗ぐらいならまあ牛が食べるか土に返るだろうからいいとして、紙コップ、食事の銀紙、ビニール袋になってくると頂けない。駅の線路はゴミだらけ。しかし初めはゴミをかばんにしまって駅のゴミ箱にまとめて捨てていた私も、わずか10時間ほどで窓から捨てる人になってしまった。罪悪感をもっていたのも初めの2,3回だけ。「環境とかエコロジーとか言っても、どうせシヴァが全部破壊してしまうんだし、その後にはまた秩序だった世界が作られるんだったら、インドの線路端にアルミホイルがたとえ100年間残ったとしても、たいした問題ではないのではないか?」などと考えて自己を正当化する。そんな奴らが、インドをそこら中ゴミだらけの国にしているわけだが。

 さまざまな驚きと発見にみちた初の長距離鉄道旅行だったが、車窓の景色、同乗しているインド人の素顔、駅で見かける人や牛は情緒たっぷり。旅費の面だけでなく、とても得した気分になることができた。

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