喫煙者差別

 筒井康隆の「最後の喫煙者」という短編小説を読んだ.愛煙家である小説家が禁煙を進める世論の高まりと共に迫害されていくというお話.名刺に「わたしはタバコの煙を好みません」と印刷している女性編集者,「犬と喫煙者立入るべからず」という公園の看板,ぼろぼろなのに二割増の新幹線の喫煙車,そして事態は喫煙者の惨殺・日本たばこ会社の焼き打ちへと発展していく.
人類の叡智は常に,その愚行が極端に走ることを食いとめるという説があるが,おれはこの説に反対である.極端というのがどれほどのレベルをさしているのか知らないが,過去,人類の歴史をふり返れば愚行が私刑とか集団殺人とかいう極端の一種に走った例は数限りなく存在する.喫煙者差別もついには魔女狩りのレベルにまで達したが,差別する方はこれを愚行だと思っていないのだから始末が悪い.宗教とか正義とか善とかいう大義名分がある時ほど人間の残虐行為がエスカレートする時はないのだ.
 このファンタジーはもしかしたら現実のものとなるかもしれない.大多数が嫌煙者になれば,喫煙は悪習であるという風潮が高まり,やがてそれが喫煙者は悪人であるという偏見を生んで粛清が始まりかねない.
 すでにその種は現在においてもある.吸殻のポイ捨てを見て,煙草を吸わない人は「喫煙者はマナーが悪い」と思う.それを数回見れば「喫煙者は誰でもマナーが悪い」と思うだろう.同様に路上で煙を撒き散らしている人を見て「喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と思い,数回繰り返されれば「全ての喫煙者は他人の迷惑を顧みない」と決めつける.そこまでいけば「喫煙者は誰でも悪人である」と思うのはあと一歩である.もちろん中には携帯灰皿を持ち歩いて吸殻を捨てない人や,他人に煙が降りかかるおそれのある場所では吸わないことにしている人もいる.帰宅して自分の部屋でしか吸わないという人もいる.しかしそういった「喫煙者は誰でも〜」という偏見に対する反例は見過ごされがちであり,ましてや嫌煙者が感情的になればなおさらである.
 人類の悪しき遺産である男女差別,職業差別,人種差別,障害者差別なども同じ論理でエスカレートしてきた経緯がある.ひとつふたつの小さな違いが過度に一般化され,偏見を生み,過剰な反応につながっていく.このことは今や差別する側に立つ嫌煙者が「愚行」に走ることがないよう大いに反省しなければならない.そのために以下のようなことを自分に言い聞かせる材料として用意してみた.
●喫煙と人格は一切関係がない.非喫煙者にも悪人はいるし,喫煙者にも善人はいる.(この場合の悪とは殺人をはじめ犯罪行為を意図している)<喫煙と人格の切り離し>
●同じく喫煙と能力には一切関係がない.喫煙をするかしないかによって能力が優れたり劣ったりすることはない.<喫煙と能力の切り離し>
●喫煙は自由に選ぶことのできる嗜好である.嗜好としての喫煙は他人がとやかく言うことではない.(ただし健康を心配するという親切についてはこの限りではない.また,煙草という毒物の販売は社会問題として問題視されなければならない)<自由の尊重>
●嫌煙者は自分自身が煙を吸い込むことを避けるという場合のみ,喫煙者に対して嫌煙を主張することができる.(喫煙者が吸う場所・時間一般に干渉しない.嫌煙者に迷惑をかけなければいつどこで吸おうが自由である)<過干渉の忌避>
●迷惑な煙もある場合には我慢するという寛容が必要である.誰でも他人に迷惑をかけないで生きていくことはできない.<限定的な許容の必要性>
●喫煙をするか否かという点でのみ異なる喫煙者と嫌煙者は,お互いに住みよい環境をつくるべく尊重し合いながら協力していかなければならない.<相互理解と協力>
 ただし煙草は気軽に手にとることができるにもかかわらず,自分及び周囲の人間の健康を害する毒物であり,しかも常習性があるという異常な事実,さらにその事実があまり認識されていないという異常な事態がこの問題を複雑にする.大蔵省とJTの責任が追及されるべきなのは言うまでもないが,社会問題として,さらには喫煙者・嫌煙者ひとりひとりの問題として意識していかなければなるまい.

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