Schauspieler(俳優)

住職になって2年が過ぎた。緊張だらけの最初のころに比べ、法事も葬式も落ち着いて執り行うことができるようになってきたと思う。間違えても動揺せずに次の手を打つことができる。
自己完成の修行をしている僧侶にとって、葬式や法事は利他行、つまり他人を満足させる仕事、言ってみればサービスだ。初期仏教では出家者が在家のことに関わらなかったという。日本でも僧侶以外の葬式に僧侶が行くようになったのはそれほど昔ではない。はじめは僧侶の葬儀法を一般の在家者に適用していいのか議論があったほどだ。葬式仏教といって葬式と法事がメインになったのは江戸時代になってからのことである。
そういうわけで、僧侶がもっとも施主を満足させる効果的な方法を模索するのは当然の帰結と言える。今の時代、「わけが分からないからありがたい」というような人は滅多におらず、きちんと理性で納得できなければ受け入れないのが普通だ。となると従来の葬式・法事のやり方もわかりやすいものに改めるという必要が生じてくる。
最近詠讃歌という強力なツールを入手した。それも含め原義を損なわないよう注意しながらいろいろ工夫してみている。それは言ってみれば「演出」である。
この「演出」の副作用が最近出てきた。葬式や法事は人がたくさん集まってくるから一生懸命になる。それはいいことだがその分、人が見ていないところでだらけてしまう。起床が遅い、朝のお勤めがテキトーなどなど、息抜きにしてもひどすぎる実態だ。そのことをふと反省するたび、「ああ、何やってんだ?!」と自分自身に苛立ってくる。
「君子は人が見ているかどうかで行動が変わらない」と論語にあるのを思い出す。当たり前のようにして自分を律していけるようになりたい。

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