仏教と葬祭

曹洞宗で永平寺系の僧侶から構成される有道会で、記念シンポジウム『曹洞宗21世紀構想〜これからの寺檀関係と葬祭のあり方』が開かれた。参加はしなかったが、その報告が全寺院に送付され、興味深く読んだ。
本来は生活の中の信仰であるはずの仏教が、葬式・法事に特化してしまい「葬式仏教」と揶揄されるようになって久しいが、最近ではその葬式ですらままならなくなってきた。「葬式仏教大いに結構。きちんとその役目を果たせるならばね(研修会の講師)」である。
高いお布施を出すぐらいなら、僧侶抜きで近親者のみの告別式・お別れ会をした方がいいと考える人が、地方から首都圏に出た団塊の世代を中心に広まりつつある。
実際に僧侶なしですますというケースはまだ少ないようだが、葬儀社が遺族の心のケアまで始めると、僧侶はただの飾りにどんどん近づいていく。ここに危機感を抱く若い僧侶は少なくない。
曹洞宗ではこれをテーマにした研修会やシンポジウムが各地で行われ、曹洞宗研究センターからは2003年に『葬祭−現代的意義と課題』が出版された。葬祭を教学的・現代的にどう位置づけるかを多角的に検討している。
今回のシンポジウムでは、没後作僧(曹洞宗の葬儀は死者を僧侶にして送り出す出家葬だけで、在家葬の法式がない問題)や戒名(僧侶にしたのに在家名の「居士」などを使っていたり、位階で差別したりする問題)の問題も大きいが、やはり一番は霊魂を認めるかというところにあるようだ。
仏典は死後の世界(輪廻)を認めるが、不滅の魂(インド哲学で言うアートマン)は認めないという、アンビバレントな態度を取る。死後何が残って、次の生に相続されるのかは、プドガラだと言ってみたり、アーラヤ識だと言ってみたりして、古来仏教の泣き所であった。
これは現代の僧侶にも引き継がれ、「霊魂はあると思えばある。ないと思えばない」というような、どっちつかずの態度を取ることが多い(例えば玄侑宗久『中陰の花』)。しかし、葬祭・法事は多かれ少なかれ、霊魂の存在を前提にせざるを得ない。そこにどう理論的な根拠を与えるか。
私はこの問題が、バラモン教の祭事教学ミーマーンサー学派のように研究されていくのかと思っていた。例えば「僧侶の引導から見えない力が生み出されて、この次元に小さい穴を開け、原子よりも小さい死者の魂を別次元に送り出す」というようなオカルティックな説明をつくっていくのは実りがないことだなあと。
しかし今回のシンポジウムで曹洞宗総合研究センターの粟谷良道氏が、葬祭の問題は「現代僧侶論」になると説いたことにはとても感心した。つまり問題は葬祭の形骸化にあるのではなく、僧侶の俗化にあるということだ。
僧侶が地域の人々から尊敬され信頼されている限り、葬儀法が多少分かりにくくても、細かいところに齟齬を来たしていても、あまり親切でなくてもありがたいのである。普段の生活ぶり、教化ぶりがものをいう。
そのためにはお寺に引きこもっていないで、いろいろな人と濃い人付き合いをしておくことが必要になるのだろうなと思っている。人に尊敬され信頼されるには、こちらも人を尊敬し信頼しなくてはなるまい。せちがらい世の中ではあるが、だからこそここに寺院が生き残る手立てがあるのだ。
雪が解け法事のシーズンが始まる。ルーティンワークにならないよう、ひとつひとつの法事に自分にとって新しい意味を見出して行きたい。

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