ポストなければ希望なし

ドイツ人のインド学者が来日しているというのを聞き、昨日は東大に行って来た。授業は30分遅れて始まり、テキストを5行ぐらい読んで終わり、先生が論文を読んだらほとんど時間になっていた。ディスカッションが始まるかと思ったらタバコ休憩。ポカーン(;゚Д゚)
しかもその後の話が切ない。ドイツではここ数年、インド学の講座をたたむ大学がどんどん増えているという。理由は簡単、学生がいないから。大学も効率経営を迫られているのだ。まだ残っている大学でも、今の教授が退官したら閉鎖される可能性が高い。
そんな状況下で学生が研究を続けるのは難しい。「No Chair, No Hope(ポストなければ希望なし)」である。スラーエ教授は、もし将来に講座を復活することになっても、学者が途切れると再建は難しいと心配していた。
ポストなければ希望なし……大いに首肯するところだが、これを言い訳にして博士論文執筆を怠けてはいけない。
北京大学から来たばかりの何さんは、中国の状況を話してくれた。中国では逆に、今までインド学や仏教学の講座がほとんどなかったが、近年になって政府が力を入れてきているという。何さんも日本での勉強を終えて、中国で博士論文を出したら先生になることが望まれている。ポストがあるので希望があるというわけだ。
ヨーロッパでインド学研究が盛んになったのは、ひとつにはサンスクリットがヨーロッパ諸語と共通の祖先をもつという発見によるが、植民地政策と無関係ではない。現地の文化を知ることは支配するときに不可欠であったが、それは今や見る影もない。むしろ戦後まで研究が続けられてきたほうが不思議だとさえ言える。
一方中国は近年、インドとの国際関係を強めている。もちろん中国には伝統的な訳経の歴史があり、近年は仏教を奉ずるチベット人との融和も求められているなど国内の事情もあるが、外交のための下準備として文化理解が求められているのだろう。韓国やタイも同じことが言える。
このように、地域研究は現代における自国と対象国との国際関係に影響される。翻って日本はどうか。日印関係の経済関係はそこそこだが、ほかと比べて特に強いというわけではない。ドイツよりはましといったところだろう。でも精神的に強い紐帯がある。それは仏教だ。
日本のインド学は、半分くらいは「お寺の息子」たちによって支えられている。また、お寺の息子でない人でもお寺関係の奨学金があるし、各宗派の大学ではたくさんの教員を抱えられる。これもお寺がある程度裕福であってこそ。葬式仏教も悪い面ばかりではない。
その日本も、お寺の息子が不甲斐ないせいか講座が減らされつつある。東大の印度哲学では、かつてパーリ仏教、インド・チベット仏教、インド哲学、中国仏教、日本仏教と5人の先生がいたが、中国仏教は木村教授の退官以降、補充が行われていない。このたび日本仏教の末木教授が退官するが、その後補充されるかどうか。
一方、日本のお寺は学問に対して理解が少ない。禅主学従論(坐禅さえやっていれば勉強などしなくてよいという考え)は公式には否定されているが、まだ一般には根強いと感じる。もっと理解を深め、お金だけでなく人材を出さなければいけないだろう。
終わってから歩いて秋葉原経由で帰宅。顔に温風が当たって足元が冷える演習室の過酷な環境のため、今日は熱が出てダウン。

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