「悟」と「証」

年に1度の現職研修会を受講。曹洞宗では55歳以下の僧侶に受講が義務付けられています。

今年のテーマは「坐禅会を始めるために」で、特に「坐禅で悟りを求めてはならない」ということの是非と、マインドフルネスと坐禅の違いが念頭に置かれていました。

「坐禅で悟りを求めてはならない」については、結果としてであっても、悟りを得る坐禅の力は説いてもよいというお話でした。喩えは悪いですが「儲けるためにやってはダメだけど、実際やったら儲かりますよ」ということでしょうか。

話を聞きながら気付いたのは、道元禅師が「無所悟」や「悟を待つ」というように「悟」という言葉には否定的な一方、同じく悟りを意味する「証」という言葉は「修」と対になって使われ肯定的です。だとすれば「悟」と「証」は分けて考えるべきではないかと考えました。

家に帰って調べてみると、サンスクリット語で「悟」はप्रबोध(プラボーダ、正しい気付き)、「証」はसाक्षात्कार(サークシャートカーラ、直接知覚)であり、前者は妄分別の入り込む可能性があるのに対して後者はそれがありません。ダルマキールティが直接知覚を「分別を離れ誤っていないもの」と定義し、その対象は事物の自相であるとしました。自分の心が作り出した世界から離れて、無常であり空である諸法の実相を見ることが修証一等の「証」なのではないかと思います。

あくまで思いつきで、おそらく禅学では幾度となく取り上げられているのかもしれません。ダルマキールティの援用など我田引水なので、禅学に詳しい方のご教示をお願い致します。

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