インド哲学の危機

前の本が終わって新しく授業で読んでもらっているテキストは、このところずっと仏教説批判が続いている。世親(ヴァスバンドゥ)という仏教徒が「議論(ディベート)」の定義をしたのだが、それをウディヨータカラというバラモンが一句一句、これでもかこれでもかというほど叩きのめす。その方法はまず一句ずつ取り上げ、それは一体どういう意味かと問う。そして可能性を3つぐらい挙げ、1つ1つつぶしていく。こうして全部の語の意味をつぶしてから、今度はそれぞれの語の関係がいかなるあり方でも成り立たないことを示す。さらに、仏教徒が他のところで述べている文言を引き合いに出して、その矛盾をつく。ひとつひとつの批判を見ると論理的には不十分だったり、詭弁だったりもするのだが、仏教徒を完全にやっつけようという執念が恐ろしいほど伝わってくる。
しかしこのような批判をされたことで、この後には仏教徒が自説を強化して対抗する。そしてバラモン教説を叩く。バラモン教も負けじと新説を生み出して……この応酬がインド哲学を発展させてきたのである。
ところでこの仏教を批判する書物はサンスクリット語で残っているわけだが、批判対象になっている仏教の書物は漢訳を除いてもう残っていない。これはどういう事情だろうか。
仏教徒とバラモン教徒の議論は1000年以上も続いたが、イスラム王朝だったムガル帝国期(12世紀ごろ)に終焉を迎えることになる。ムガル王朝は仏教徒もバラモン教徒も殺し、たくさんの本を焼いた。バラモン教は何とか生き延びたが、仏教徒はムガル帝国の影響が及ばなかった地域を除いて全滅してしまう。哲学の議論どころではない。そのため仏教の書物はインドにはほとんど現存せず、中国とチベットにもたらされたものが翻訳として残るのみである。
バラモン教の書物も多くが焼かれたが、代々伝わるパンディット(伝統的教学者)の家で伝承されていたものは難を逃れた。パンディットは一子相伝でバラモン教学を伝えてきたため、子弟の教育のために家に本がある。さすがのムガル帝国もパンディットの家を一軒一軒回ってしらみ潰しに本を焼いていくことはできず、学校などに集められていたものを焼くにとどまる(それでも被害は甚大だったが)。しかし仏教徒は出家者であるため、書物はナーランダなどの大学に保管されていた。これが災いして壊滅的な被害を受ける。三蔵法師がナーランダを訪れたとき900万冊の写本があったというから、それが全部焼けてなくなったことを考えると打撃の大きさが分かる。
しかし何とか生き残ったバラモン教学に、ムガル帝国以来の第二の波が襲ってきている。それは西洋文明の急激な浸透である。
かつてパンディットの家系に生まれた子どもはヴェーダに則って入門し、幼少時から暗記を中心とする徹底的な教育を施された。シュクラ先生も5才のときから教育を受け、以来ずっとこの道だけを歩んでいる。ところが現代においてそんな生き方はできない。学校に入れば国社数理英、西洋化された教育が待っており、コンピュータの知識を身につける必要もあるだろう。シュクラ先生の息子は27才でシステムエンジニアをしているが、バラモン教の知識は0に等しい。
このような事態がシュクラ家だけでなく、バラモン教学を支えてきたパンディットの家で普通に起こっている。家に代々伝わってきた貴重な書物は使われないまま虫食いとなり、誰も読める人がいなくなってゴミとなる。シュクラ先生がヴァラナシにいたとき、そうやって写本がガンジス川に捨てられるのを何度も見たという。強制的に焼かれるのではなく自発的に捨てているのだから、もう末期的だ。この事態に危機感を抱いて各家から写本を集めて保管している図書館もあるが、維持するための資金が続かず管理状態の悪いところが増えている。
近代インド仏教学の貢献は素晴らしく、わずかに残っているサンスクリット写本を見つけ出し、漢訳・チベット訳と相互参照することで壮大な仏教の体系が明らかになりつつある。一方、インドに仏教がなくなってからも発展を続けたバラモン教はこのありさま。インドからなくなった仏教学が世界宗教としての支えで生き残り、一方インドに残ったバラモン教学がヒンドゥー教の支えもなく死にかけているのは誠に皮肉なことだ。もしインドでインド哲学を学びたいという人がいたら、1日でも早く来ておかないと、もう後がないような気がする。

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