日本のミニマリズム

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フランスのボードゲームデザイナー、B.フェデュッティ氏がブログで発表したコラム”Minimalisme japonais”を訳出した。ここでいう「ミニマリズム」とは最小主義、少ないコンポーネント、少ないルールで面白いゲームを作るというデザイン哲学で、日本発のゲームに顕著であるという。ボードゲーム評論の枠組みからも、これからのトレンドを占うためにも、興味深い視点である。


ボードゲーム業界はここ数年、急速に成長してきました。いろいろな技術的、経済的、社会的、文化的な理由により、ゲームデザイナー、ゲーマー、ゲーム出版社がどんどん増えています。このため、出版されるゲームの性質が変化しています。これはゲームデザインやスタイルの多様性を生み出す最も顕著な効果の1つです。芸術が発展するときいつもそうであるように、新しいトレンドが起こると、従来のスタイルと急速に調和していくものです。新しさと交配の弁証法といえるでしょう。ボードゲーム業界は、音楽や文学と比べるととても小さなものであるため、トレンドは少なく、また目立ちやすいものです。もっとも、どんな分類も境界線や周辺が常に恣意的なものではありますが。

流派とトレンド
10年前、ゲームデザインには2つの流派が目立っていました。ドイツ流とアメリカ流です。クラシックとバロックと言い換えてもよいかもしれません。前者は、抽象的またはテーマ性が薄く、見かけはつまらないとまではいかなくても地味で、ルールが明解で、インタラクションが少なく、それなりにストラテジックな深みがあるゲームを作っていました。後者は、テーマ性がとても強く、ときに暴力的だったりユーモラスだったりし、イラストが重々しく、ルールは長くてややこしく、タクティクスがカオスを生み出すようなゲームをデザインしていました。ドイツ流は「ユーロゲーム」となり、アメリカ流は「アメリトラッシュ(訳注:アメリカ的なゲームの総称)」となりました。この分類は今も有効です。私が先週プレイしたライナー・クニツィアの『秦』は旧来のドイツ流でしたし、リチャード・ガーフィールドの『キング・オブ・トーキョー』は典型的なアメリトラッシュでした。この両者はお互いに影響しあっており、ユーロゲームがより複雑に、よりインタラクティブになる一方、アメリトラッシュもより軽めで一貫性のあるルールになってきています。それどころか、今日出版されている重量級ゲームの多くは、両者のいいとこ取り(ときに悪いとこ取り)をしています。ドナルド・X・ヴァッカリーノ、マット・リーコック、アンドレアス・シュテーディングのようなデザイナーは明らかにどちらにも属していますし、私もそうだと思います。ボードゲームイベントやインターネット上では、両流派のゲーマーやゲームデザイナーがヨーロッパとアメリカから、あるいは世界中から出会い、議論し、コラボしています。ユーロゲームの最も有名なデザイナーの1人、アラン・R・ムーンはアメリカに住んでいます。

ミニマリズム
事態はより複雑になってきており、私は今、第3の流派を加えようかと思っています。それはミニマリスト、または日本流と読んでいいでしょう。日本だけではなく、すでに国際化しているものですが。

画家、作家、シェフと同様、ほとんどのゲームデザイナーは、純粋ですっきりしたデザインや、ゲームの本質を捉えるシンプルな縮図を夢見るものです。実際みんなが試してみています。単一のメカニズムに基づいた超シンプルなゲームで、1ダースのコマやカードだけでプレイでき、禅的な美しさを強調したもの。例えばシュテフェン・ミュルハウザーの『リニア』や私の『バビロン』のようなアブストラクトゲームの小品、ドイツのカードゲームではトルステン・ギムラーの『ゲシェンク』やドリス&フランクの『ピコ』、『人狼』やその派生などが挙げられます。

なぜ日本?
日本の『人狼』ブームはおそらく、近年これだけ多くのミニマリストゲームが日本発である理由のひとつだと思います。韓国発はここまで多くはありません。『ラブレター』『ロストレガシー』『RRR』『大商人』のデザイナーであるカナイセイジや木皿儀隼一の作品は多くがカードゲームで、ブラフ要素が多いものの内容はさまざまです。でも共通する感覚があり、それが杉浦のぼるのエレガントなイラストで強調されています。最近のエッセン・シュピールから、私が入手してきたのは日本ゲームばかりでした。『ドンブリコ』『Sail to India』『イカサマージ』『赤ずきんは眠らない』『成敗』『タマゴリッチ』、それと丸い箱に入った日本語ルールのみのゲーム(訳注『すしドラ!』)。そうなった理由のひとつとして、飛行機で来たので、アメリカゲームはもちろんのこと、ドイツゲームも大箱を持ち帰る余裕がなかったということがあります。しかし、私はまたフランスで入手できるか分からない日本ゲームの小箱に惹かれたのです。

私は何でも「文化の違い」で説明してしまうことを警戒し、クロード・レヴィ=ストロースのように、「場所が変わっても考え方にさほど違いはない」と確信しています。また歴史家として、「時代によって考え方が違う」という、安易で普遍的な説明も避けるよう私は努めてきました。日本のデザインのシンプルさと節制は、禅庭や夏目漱石、川端康成の短編小説のそれとつい結びつけたくなってしまいますが、人口密度が高く、都市化した国で住宅のサイズが小さいというのが本当のところでしょう。とにかく、この理由が文化的な遺伝なのか、現実の偶然なのかに関わらず、日本発の新しいゲームは古典的なユーロゲームとは違う感じがするというのが事実です。たとえそれも「ユーロゲーム」だと主張する人がいるとしても。

日本と世界
ボードゲーム業界は広く国際化され、フランス、ドイツ、アメリカ、日本のデザイナーを区別することはもう馬鹿げたものと思われるようになっています。どこの出身であってもお互い知り合いで、インターネットなどで日常的に出会い、議論しています。ミニマリズムが日本に広まっていれば、ヨーロッパやアメリカにも広まっていなければなりません。前に述べたようなさまざま理由により、日本のデザイナーが大きく取り上げられていますが、このトレンドは、ほかの地域でも無視できません。カナイセイジが『ラブレター』を構想していたとき、リッキー・タフタは『クー』をデザインし、私は『マスカレイド』に取り組んでいました。この3つのゲームは全く異なるものですが、基本アイデアは共通しています。それはすでに『人狼』や『レジスタンス』にもありましたが、各プレイヤーが特殊能力をもったカードを隠してプレイするというものです。今年の作品で60人までプレイできる『2つの部屋とブーム(Two Rooms and a Boom)』や、シェイクスピアがテーマの『ヴェトナ評議会(The Council of Vetona)』は、とても日本的だと思います。

私がこのごろ、ゲームデザイナーの友人たちに言っているのですが、1人1枚しかカードを使わないゲームの後には、全員で1枚しかカードを使わないゲームが来るでしょう。そんなゲームはもうあります。『コインエイジ(Coin Age)』というゲームで、ちょうどキックスターターの目標金額を達成したところです。

小さいビッグゲーム
ライアン・ローカットの『八分帝国』はもっとコンポーネントが多く、木製キューブと小さなゲームボードでプレイしますが、そのデザイン哲学は同じです。デザイナーは、『リスク』や『スモールワールド』スタイルで古典的な征服ゲームを作りつつ、15分だけで終わり、できるだけ多くの内容をできるだけ小さい箱に収めようとしました。私は林尚志による貿易とマネージメントのゲーム『Sail to India』も、『8分間帝国』と同じ前提の『小さな叙事王国』もまだプレイしていませんが、どちらも重量級のアメリカゲームやドイツゲームから厳しいダイエットと坐禅を経てできあがったものです。

どれも真の新しさではないと反対する人がいるかもしれません。この20年に私が楽しめたゲームの中には、今でいうなら「日本スタイル」とみなせるものがいくつもありました。例えば『フェレータ』『ゲシェンク』『悪魔の城』『オリエンテ』『ナゲッツ』などがそうです。場所も時間もできるだけとらないように賢くデザインされた小さなゲームは、多くが習作であり、本当に興味をもつゲーマーはほとんどいませんでした。それがポピュラーになり、次の大きなブームを生むかもしれないのは、とても良いことです。
Bruno Faidutti, Minimalisme japonais – Japanese Minimalism

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